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備中松山城跡

更新日:2020年3月25日更新

備中松山〈びっちゅうまつやま〉城跡 高梁市内山下 

 「天空の山城」とも称される備中松山城は高梁市街の北、標高 440 mを測る臥牛山〈がぎゅうさん〉山頂から山麓にかけて、全長約 1,800 mにわたり築かれた巨大な城です。山上には北から大松山〈おおまつやま〉、天神〈てんじん〉の丸、相畑城戸〈あいはたのきど〉、小松山〈こまつやま〉、中〈なか〉と下〈しも〉の太鼓〈たいこ〉の丸と呼ばれる曲輪〈くるわ〉が累々と築かれています。山麓にも馬酔木〈あせび〉の丸と呼ばれる出丸と、江戸時代に備中松山藩の政庁が置かれた御根小屋〈おねごや〉(県指定史跡)があります。

大松山城遠景
大松山を北から臨む 

 秋庭重信〈あきばしげのぶ〉が鎌倉時代に大松山に城を築いたのがその始まりと伝えられます。戦国時代には庄〈しょう〉氏、三村〈みむら〉氏の本城となり、全山を連郭式の山城としたと見られます。この際築かれたとみられる曲輪や堀切〈ほりきり〉が城内各所に残っています。

相畑城戸の曲輪
相畑城戸の曲輪

天神の丸の堀切
天神の丸の堀切

 天正3(1575)年に起こった「備中兵乱」を経て、安芸国〈あきのくに〉の毛利〈もうり〉氏が入城します。天正8(1580)年に毛利輝元〈もうりてるもと〉が城の修築を命じた記録があり、その中で石を引くための綱を送ると記されています。現在、大松山に残る石積みは、その際に築かれたものかもしれません。

大松山城の石積み
大松山の石積み

 天正13(1585)年に毛利氏と備前国〈びぜんのくに〉の宇喜多〈うきた〉氏との間で領地境が定められ、高梁川から西が毛利氏の所領となります。この時、備中松山城は高梁川の東側にあるのにかかわらず、毛利氏方の城として残されました。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに際して毛利氏は備中国を失い、替わりに小堀〈こぼり〉氏が備中国奉行〈びっちゅうのくにぶぎょう〉として派遣されます。その後、池田〈いけだ〉氏、水谷〈みずのや〉氏が代々城主となります。現在小松山に残る天守、二重櫓や土塀(いずれも国指定重要文化財)などは、水谷勝宗〈みずのやかつむね〉により改修されたものです。

小松山城の櫓と天守
小松山の櫓と天守

備中松山城アクセスマップ
備中松山城アクセスマップ

 

 JR伯備線高梁駅から、山麓のシャトルバス乗降場までタクシーで10分 、徒歩で20分。

 シャトルバスに乗り換えて降車後、さらに徒歩20分で小松山城に到着。大松山城まではさらに徒歩30分。山道を登るので、歩きやすい靴や服装をお勧めします。

 

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