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林野城跡

更新日:2019年9月25日更新

林野〈はやしの〉城跡 美作市林野

歴代の増改修により大型化した林野城

 乱世といわれる南北朝時代から戦国時代の約250年間、今年度調査対象としました美作北東部においても各地で多くの合戦が繰り広げられ、これに対応して数多くの城館が構築されました。ただし、規模や性格、築城時期や存続期間はさまざまで、なかには南北朝期に築かれ近世まで長期にわたる存続が認められる有力武士の本城や、その本城を守るために領内要衝に築かれた家臣団の支城、あるいは城攻めに際して陣城として一時的に構築された城などがあります。

 林野城は、吉野川と梶並川が合流する地点に築かれた山城で、中世には河川交易及び陸上交通で物流の拠点であった林野を押さえる役割を担っていました。

 この要衝の地に築城された林野城の歴史は古く、すでに康安元(1361)年には存在していたようで、「太平記」には伯耆の山名時氏〈やまなときうじ〉による美作国侵攻に際して「林野・妙見二ノ城」が二十日間抵抗した後に落城したことが記されています。この「二ノ城」のうち「林野」が林野城と考えられています。

林野城跡遠景(南から)
写真1林野城跡遠景(南から)

南北朝期の痕跡を残す頂部の主郭(北西から)
写真2 南北朝期の痕跡を残す頂部の主郭(北西から)

 その後、林野城は天文元(1532)年以降出雲から侵攻してきた尼子〈あまご〉氏の傘下におかれたようですが、尼子氏撤退前後の永禄期(1558~1569年)には江見久盛〈えみひさもり〉・久資〈ひさすけ〉の在城が知られています。さらに天正7(1579)年以後は宇喜多〈うきた〉氏の東美作地域支配の拠点とされ、城には戸川秀安〈とがわひでやす〉・岡市丞〈おかいちのじょう〉が置かれていました。また、関ヶ原合戦後の慶長5(1600)年12月以降美作国は小早川秀秋〈こばやかわひであき〉の所領となり、城には稲葉通政〈いなばみちまさ〉などが城番として置かれ、さらに慶長8(1603)年以降、江戸時代になっても津山藩森〈もり〉氏が三代にわたって城を維持していたようです。

 このように南北朝時代に築城され、戦国時代を経て江戸時代までの約300年にわたる存続が知られる林野城ですが、現在山頂部とそこから北と西側下方に派生した尾根筋に残る4か所の曲輪群からは、南北朝時代をはじめ、ほぼ全長500mにも達する範囲を要害とした戦国時代の山城の姿を見ることができます。    
 

主郭東側に高い切岸によって階段状に造られた大型曲輪(東から)
写真3 主郭東側に高い切岸によって階段状に造られた大型曲輪(東から)

西側尾根筋に造られた曲輪群(西から)
写真4西側尾根筋に造られた曲輪群(西から)

 南北朝時代の姿を見せるのは、頂部の全長170mを測る曲輪です(写真2)。曲輪は、長い割に幅10~20mと狭く、しかも上面中央部には一段高い曲輪が造成されていますが、基本的には一面で、山頂を一つの曲輪とした単郭構造と見ることができます。これは、築城技術が未発達で、十分な労働力の確保が困難であった初期の山城によく見られる型式といえます。

 一方、これに対して新しい様相が頂部および頂部下方の北側(写真5)と西側に派生した尾根の端部(写真4・6)に造られた3つの曲輪群に窺うことができます。それらは築城技術の発達と十分な労働力の確保を背景として造られたものです。大規模な切岸により広く造られた曲輪(写真3)、あるいは複数の曲輪が有機的に連結するあり方からは戦国時代以降の増改築の様子を知ることができます。

 なお、城内からは鉄線引きの痕を残すコビキB類の瓦の出土も知られており、その編年的位置づけによると林野城には宇喜多氏から小早川氏段階には瓦葺きの建物が建っていたことが推測されます。    

北側尾根端部に造られた曲輪(南から)
写真5 北側尾根端部に造られた曲輪(南から)

西側尾根端部に造られた曲輪群(東から)
写真6西側尾根端部に造られた曲輪群(東から)

林野城跡アクセスマップ
林野城跡アクセスマップ

*林野城跡までは、姫新線「林野駅」下車、徒歩20分。

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