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国吉城跡

更新日:2019年9月25日更新

国吉〈くによし〉城跡 高梁市川上町七地 

 国吉城は、川上町地頭の中心から北西に約1.5km離れた山塊の頂部に位置しています。最高所の標高は400m、山麓からの高差は240mで、東・西・南側は急斜面になっています。城からは、井原と成羽を結ぶ道筋にある地頭の町並みを見渡すことができます。現在、城山公園として整備が行われており、城跡に建つ国吉神社の近くまで舗装道路が続いています。

 国吉城は、室町時代中期に成立したとされる山城国相国寺〈しょうこくじ〉領の荘園「手荘〈てのしょう〉」の守りを固める城として築かれたと考えられます。その後、戦国時代の天文年間(1532~1555)までには、小田郡星田郷(井原市美星町)から川上郡成羽(高梁市成羽町)へと進出した三村家親〈いえちか〉の支配下となったようです。

 さてこの城は、織田信長の誘いに応じて離反した三村氏を毛利方が攻撃したいわゆる「備中兵乱」の舞台として、多くの文献に登場します。

 反旗を翻した三村氏に対して、毛利方の動きは迅速でした。天正2年11月に毛利軍は笠岡に上陸、12月に国吉城を攻めました。『小早川隆景自筆書状』によると、12月26日から成羽攻略に先んじて手要害(国吉城のこと)攻めを開始、城内からは降伏の申し出があったもののこれを許さず、城兵を討ち果たしたとあります。さらに天正3年正月朔日〈ついたち〉付けの『備中国手要害合戦頸注文』には、国吉城攻略に際して城兵を打ちとった者の名と得た首級の数(総計305級)が延々と綴られています。これらの書状から、国吉城での戦は年末から年初めまでのわずか数日で終了したことがわかります。 現在、城跡の一画には、三村一族の供養碑が建てられています。

 国吉城は、南北210m、東西40mを測る連郭〈れんかく〉式の山城です。最高所にある主郭は南北30m、幅20mほどの広さがあります。主郭の南には高さ約3mの切岸を経て南北20m、東西12mの曲輪、さらに南へ4つの曲輪が階段状に続いています。これらの東には南北60m、幅3m程の細長い腰曲輪があり、城の東側の防御を固めていたのでしょう。

 このように、国吉城は南北方向に曲輪を配した単純な縄張りで、東西の斜面は角度が急ではありますが、堀切や竪堀といった防御施設は見られず、守りに固い構造とは言いがたい城です。なお、この城の北側200m先の高まりには小城山城という全長100m程度の山城があり、国吉城と一体として運用されていたと思われます。

参考文献

 『小早川隆景自筆書状』 『大日本古文書』家わけ十一ノ一、小早川家文書一 P534 東京帝国大学編、国立国会図書館蔵
 『備中国手要害合戦頸注文』 『大日本古文書』家わけ八ノ一、毛利家文書之一 P400~P423 東京帝国大学編、国立国会図書館蔵

国吉城跡遠景
国吉城跡の遠景(南東から)矢印は小城山城

 

国吉城跡曲輪
頂部の曲輪群(北から)

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