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岩屋城跡

更新日:2019年9月25日更新

岩屋〈いわや〉城跡 津山市中北上 

 津山市の南西部、真庭市との境界付近に、標高483mの岩屋山がそびえています。山頂に立つと、中国自動車道・国道181号・JR姫新線が通る旧出雲街道を南に見下ろし、東は津山市街地、西は真庭市の勝山・久世地区までも視界に収めることができます。今回紹介する岩屋城跡は、この見晴らしの良い山頂に築かれています。

岩屋城跡遠景
岩屋城跡遠景

岩屋城跡から津山市街地方面を望む
岩屋城跡から津山市街地方面を望む

 岩屋城の歴史は、嘉吉元(1441)年、それまでの赤松氏に替わって美作国守護となった山名教清〈やまなのりきよ〉による築城に始まります。応仁の乱(1467~1477)が勃発すると、赤松氏は旧領の美作国を奪回し、岩屋城もその支配下に入りました。その後も、要地に位置する岩屋城は、浦上氏、尼子氏、宇喜多氏、毛利氏といった諸勢力による争奪戦の舞台となり、城主のたび重なる交替を経て、天正9(1581)年には毛利方の中村頼宗〈なかむらよりむね〉の居城となりました。江戸時代の軍記物『陰徳太平記』などによると、中村頼宗は32人の決死隊に命じて、防備の手薄な本丸の北側斜面から奇襲をかけ、落城させたといわれています。

 翌年、備中高松城の戦いの講和によって、岩屋城を含む高梁川以東の地域は宇喜多氏の領地となります。城の引き渡しを拒んだ岩屋城の中村頼宗に対し、宇喜多氏は天正12(1584)年に家臣の花房職秀〈はなふさもとひで〉を遣わし、城を包囲して接収戦を仕掛けました。なかなか勝敗は決しませんでしたが、毛利氏のもとに寄寓していた将軍足利義昭の仲介でようやく和議が成立し、城兵たちは城を明け渡して退去しました。その後、岩屋城は天正18(1590)年に全焼し、以後再建されることなく約150年にわたる歴史に幕を下ろしました。

 岩屋城は、頂上付近の尾根筋を利用して築かれ、その全長は約500mにも及ぶ大規模な山城です。頂上に本丸(主郭)を置き、北東側にのびる尾根に東砦・二の丸・三の丸、南東側の尾根に馬場と呼ばれる曲輪が連なります。これらの曲輪群に囲まれた谷筋は、城の生命線といえる水源地で、現在も井戸や池が水をたたえています。さらに周囲の尾根筋にも、段状に造成された曲輪の跡が残っています。また城域の北東側斜面には、幅5m、深さ2m、最大長100mに及ぶ巨大な畝状竪堀が12本、櫛の歯のように掘削され、防備を固めています。

本丸(主郭)
本丸(主郭)

主郭から見た馬場
主郭から見た馬場

 城の南東側には、慈悲門寺跡〈じひもんじあと〉とよばれる寺院の跡があり、広い平坦地には現在も建物の礎石が残っています。慈悲門寺は平安時代の高僧、円珍〈えんちん〉による創建と伝えられますが、岩屋城の頃には曲輪として利用されたと思われます。

 もう一つ、岩屋城を特色づけるのが、花房職秀による接収戦の際に築かれた多数の付城<つけじろ>(攻城戦の拠点として築かれた砦)です。付城は、岩屋城を取り巻く尾根筋に設けた多数の小規模な曲輪を土塁で連結しており、総延長は約6.5kmにもなります。岩屋城を完全包囲するその配置から、接収に向けた宇喜多側の強固な意志が読み取れます。

 

慈悲門寺跡
慈悲門寺跡

付城のひとつ、楽万の上砦跡
付城のひとつ、楽万の上砦跡

 交通の要衝に位置し、150年の歴史の中で合戦を繰り返し、何度も主を替えた岩屋城は、備前・播磨・出雲など周辺諸勢力との「境目の地」だった戦国時代の美作を象徴する城のひとつといえるでしょう。

参考文献

  • 久米町史編纂委員会編『久米町史 上巻』 1984
  • 「美作国の山城」編集委員会編『美作国の山城』 2010
  • 三好基之編著『陰徳太平記』山陽新聞社 1990

岩屋城跡アクセスマップ
岩屋城跡アクセスマップ

駐車場までは米子自動車道久世Icから約7km、中国自動車道院庄Icから約12km。
駐車場から主郭(本丸)まで徒歩約40分。
付城群には細い山道が通じていますが、荒れて通行困難な場所もあります。

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