ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

福山城跡

更新日:2019年9月25日更新

福山〈ふくやま〉城跡 吉備中央町加茂市場

 福山城跡は備前と備中の国境、吉備中央町加茂市場に所在し、県下三大祭の一つ「加茂大祭」(県指定無形重要民俗文化財)が執り行われる加茂総社宮から南東へ約1kmのところにあります。城が築かれた標高約366mの山頂は、その北裾を東へ流れる宇甘川周辺の平野部と約160mも比高があり、東西への眺望は良好です。

 福山城は、文亀2年(1502)に備前国金川城主の松田氏家臣である高見源右衛門が築城し、さらに天正2年(1574)には伊賀兵庫が入城したと伝えられています。天正8年(1580)、毛利輝元や小早川隆景は備中国から備前国に進攻するため、備中国竹荘(現在の吉備中央町竹荘)に陣をとり、上加茂村・下加茂村(現在の吉備中央町上加茂・下加茂)において備前国虎倉城主の伊賀氏と攻防を繰り広げます。『備前軍記〈びぜんぐんき〉』や『虎倉物語〈こくらものがたり〉』に記された「虎倉合戦」や「加茂崩れ」と言われる合戦で、福山城はその舞台となりました。

福山城跡遠景(北西から)
福山城跡遠景(北西から)

伊賀氏が造営したと伝わる加茂総社宮
伊賀氏が造営したと伝わる加茂総社宮

 福山城跡がある山頂部は鞍部<あんぶ>をはさんで大きく東西二つの峰に分かれます。この城跡の一部は福山城公園として整備されており、西側の峰及び鞍部に配置された曲輪〈くるわ〉を容易に見学することができます。 まず、西側の峰には細長く「L」字に曲がった平坦面があり、中心となる曲輪と考えられます。その曲輪の周縁は急勾配の切岸〈きりぎし〉となっており、さらに下段には幅広の帯曲輪〈おびくるわ〉が巡っています。また中心となる曲輪の東側下段と鞍部は公園及び駐車場によって改変されていることから、当時の様子をうかがうことは困難ですが、もともとは細長い曲輪であった可能性があります。

中心となる曲輪(南西から)
中心となる曲輪(南西から)

下段の細長い曲輪(南東から)
下段の細長い曲輪(南東から)

 そして、西側の峰から北西、南西、南の三方向に延びる尾根にはことごとく小規模な曲輪が連続して配置され、斜面部や谷部に畝状竪堀群〈うねじょうたてぼりぐん〉が配置されています。特に、北西に延びる尾根の北斜面には13条という夥しい数の竪堀を横に連ねているほか、北西と南西の尾根の間にある谷部には大小合わせて6条の竪堀があり、圧倒されるほど守りを強固にしています。 一方、自然地形に近い二つの平坦面がある東側の峰は、東に続く尾根との間を2条の堀切と土塁で遮断し、2面の曲輪が設けられた南西に延びる尾根の端も浅い堀切2条で区切っています。

斜面の下から見た竪堀(東から)
斜面の下から見た竪堀(東から)

尾根を遮断する堀切(南から)
尾根を遮断する堀切(南から)

 これまで福山城跡の縄張りは東西の頂部周辺の曲輪や堀切が知られていましたが、今回の調査によって頂部周辺に続く尾根や斜面部にまで曲輪や堀切、畝状竪堀群が配置されていることを新たに確認することができました。その範囲は、東西440m、南北250mと広範囲に及び、吉備中央町の中世城館のなかでも屈指の規模を誇るだけでなく、縄張りも複雑な構造であることも分かりました。

 *「福山城公園」までは加茂総社宮から車で10分。又は県道高梁御津線沿いのバス停「加茂川中前」から徒歩約40分。 ただし、県道竹部加茂市場線から福山城公園に続く道は途中で幅が細くなり、急斜面で舗装されていないところがありますので、天候や路面の状態が良くない場合は用心しましょう。
  (加茂総社宮へのアクセスは、JR津山線金川駅から福沢行きバス30分加茂市場下車すぐ。山陽自動車道岡山Icから車45分。岡山自動車道賀陽Icから車15分)

福山城跡(福山城公園)アクセスマップ
福山城跡(福山城公園)アクセスマップ

関連リンク