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苫田ダム建設に伴う発掘調査の思い出

更新日:2025年7月16日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター  氏平昭則

はじめに-苫田ダムの建設に至るまでと発掘調査計画

 平成6年8月、「苫田ダム阻止特別委具会条例」が廃止され、鏡野町(旧奥津町)で苫田ダムの建設計画が本格化し、急ピッチで調査協議が行われました。そして、水没予定地内(259,950平方メートル)で 埋蔵文化財包蔵地14か所、湖岸道路路線内(10,700平方メートル)で埋蔵文化財包蔵地10か所(いずれも当初予定)の発掘調査が平成7年度から実施されることになったのです。調査体制は調査員3名・作業員15名で構成される班が当初2班、最大で6班(久田原<くたはら>遺跡など)体制でした。この中で面積が最も広く、遺構・遺物数が多いと予想された旧町中心部の久田原・久田堀ノ内<くたほりのうち>・夏栗<なつぐり>遺跡の発掘調査に最も注力した調査計画になりました。

続々と明らかになるダム予定地の歴史

 平成7年度から10年度まで、調査範囲を確定するための確認調査と、予定地内の北・南端の低丘陵上に立地する遺跡(河内<こうち>遺跡・河内構<こうちのかまえ>遺跡など)と山城(河内城跡など)を対象に全面調査を行いました。

 関連資料 その1
 ▶ 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告170
 ▶ パンフレット 発掘された久田の埋蔵文化財I
 ▶ パンフレット よみがえる久田の歴史

 弥生時代は多くの遺跡で中期後半~後期の遺構が見られました。峪畑<さこはた>遺跡では銅剣の鋒<きっさき>を転用した銅鏃が出土し、山陰青銅器文化との接点に注目が集まりました。古墳時代から古代にかけては各遺跡で7世紀代の製鉄炉や炭窯、9~10世紀代の製鉄炉、古代の製炭施設と考えられる焼成土坑が見つかり、これらが美作の鉄生産の一翼を担っていたことがわかりました。中世以降は、河内遺跡は鎌倉~室町後半、河内構遺跡は室町後半~近世中頃を主体とする集落で、河内城跡・久田上原城<くたかみのはらじょう>跡・比丘尼ヶ城<びくにがじょう>跡・城峪城<しろざこじょう>跡は南北朝期の山城であることがわかり、中世集落とその逃げ城という構図が浮かび上がってきました。

河内城跡_発掘調査時の写真
​<写真>平成8年度調査の河内城跡(東から)

 調査は引き続き、旧町の中心部だった平地へ進みます。久田原遺跡は平成8年度に確認調査、継続して全面調査を平成12年度まで実施し、最終的に78,340平方メートルにわたる大規模な調査となりました。

 関連資料 その2
 ▶ 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告184
 ▶ パンフレット 発掘された久田の埋蔵文化財I
​ ▶ パンフレット 発掘された久田の埋蔵文化財II
 ▶ パンフレット よみがえる久田の歴史

 この遺跡を特徴づけるのは、所により厚さ2m余りを測る弥生時代末から古墳時代初頭の大洪水砂層です。【当センターHP古代吉備を探る3 > 弥生・古墳時代の洪水痕跡が語りかけるもの】。

 縄文時代は、後期から晩期の集落が存在し、主に晩期の竪穴住居・貯蔵穴がありました。

 弥生時代は中期前葉~中葉と中期後葉~後期の集落で、前者からは当時希少であった鉄器や玉作り関係の遺物が出土し注目を集めました。

 古墳時代の集落は大洪水から200年以上が経過したのちに全体の東側に形成されました。西側には横穴式石室など12基からなる久田原古墳群がありました。築造が飛鳥時代の7世紀末~8世紀初頭まで継続している珍しい古墳群です。

 また、古代の祭祀に伴う遺物として陶馬<とうば>が出土したほか、古墳時代後期~古代の掘立柱建物56棟を確認しています。中世では13~14世紀の鍛冶関連遺構と掘立柱建物95棟を検出しました。
【当センターHP古代吉備を探る3馬とまつり

久田原古墳群_土壙墓の写真
<写真>久田原古墳群土坑墓3の主体部(7世紀中頃、北から)
 土坑の掘られた地面も砂、埋土も砂。遺物の出た様子を残して掘るのも一苦労。

 久田堀ノ内遺跡は久田原遺跡の南に隣接し、平成9年度に確認調査、その後全面調査を平成11~13年度に実施し、52,885平方メートルとなるこれも大規模な調査となりました。

 関連資料 その3
 ▶ 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告192
 ▶ パンフレット 発掘された久田の埋蔵文化財II
 ▶ パンフレット よみがえる久田の歴史

 縄文時代では、後期中葉・末葉~晩期後葉にかけての大量の土器などが出土しました。また、微高地上にみられる72基の火処<ひどころ>群は、それぞれが晩期前葉~中葉の土器溜まりを伴い、その場での生活をうかがわせる遺構です。

 弥生時代では、中期後葉を中心とした集落と、県北初となる水田跡を検出しました。水田跡は河川沿いの低位部に営まれ、洪水砂によって埋もれていたため発見に至りました。

 中世では、3重の堀に囲われた居館部分とその周囲に屋敷地が形成されていました。遺物では戦国時代を中心に、鎌倉時代から織豊期にかけて地元・各地や中国産の陶磁器などが出土し、戦国時代初頭の文書に記載された「久多庄<くたのしょう>」の実態が明らかになりました。

久田堀ノ内遺跡_中世居館中心部全景写真
<写真>平成12年、久田堀ノ内遺跡の中世居館中心部全景写真(南から)

 調査員・作業員の休憩用テントが上側に3か所、右下に3か所の計6か所確認できます。黒い四角は10m×10mの寒冷紗で、夏季の現場で暑さを避けるために設置しています。調査区中央を東西にベルトコンベアー列(1本7mが18本連なっている)が横切り、まるで蛇のようです。写真では調査範囲の一部を切り取っただけですが、それでも広大な面積であることが理解できるかと思います。

 

 夏栗遺跡は久田原遺跡の北に隣接し、平成8年度に確認調査、その後全面調査を平成13~16年度に実施し、35,640平方メートルにわたる調査となりました。

 関連資料 その4
 ▶ 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告194
 ▶ パンフレット 発掘された久田の埋蔵文化財III
 ▶ パンフレット よみがえる久田の歴史

 弥生時代の集落は、主に遺跡の南側で確認し中期中葉、中期後葉~末、後期前半、後期後半の4時期にわたっています。中でも直径8mを測る後期前半の竪穴住居11では、床面で焼上面が5か所確認され、鉄器・鉄片が61点出土するなど、鉄器の製作が具体的に復元できました。

 古墳時代の集落は、合計51軒の竪穴住居が調査区ほぼ全域に主に5世紀から7世紀代まで断続的に存在し、時期によるまとまりと変遷を追うことができました。

 中世以降の夏栗遺跡は、13~14世紀を中心としながら12世紀末から16世紀にわたる集落が営まれていました。道を挟んで計画的に配置された建物群と、それらに伴う屋敷墓や、大形建物群からなる有力者居住域が判明し、南接する久田原遺跡の成果も併せて村落の内容が明らかになりました。

困難な冬季の調査とこぼれ話​

 平成7年度当初から冬季の発掘調査に入りましたが、予想を上回る困難がありました。除雪には大量のそり・プラじょれんを用い、人海戦術で応えました。久田原遺跡などの平地の場合、埋まった土のみならず掘削した面も吉井川由来の砂層でもともと脆弱であり、除雪後に遺構の縁が崩れることもしばしばありました。雪が降らなくても今度は寒さで地面が凍結して霜が立ち、それが溶ければまた穴の端が削れていくのです。

 調査中の降雪も苦労の元でした。岡山県北に特有のべた雪が多く、実測用紙に乗って鉛筆が書けなくなることもしばしばでした。寒いので手がかじかんで動かなくなるなど当たり前です。昼間の気温がマイナス10度を記録した時もあり、仕事が終わって暖かい事務所に帰ってほっとする、そんな日々が続きました。

 調査現場周辺は自然豊かなところでした。タラの芽やイノシシ肉などがとてもおいしかったこと、スズメバチに刺された調査員が救急車搬送になったこと、現場付近で農作物が栽培されていた風景も懐かしい思い出です。

そして、調査は終盤へ―おわりに

 平成14年度、大規模調査のトリをとるべく私は調査に向かいました。

 関連資料 その5
 ▶ 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告193
 ▶ パンフレット よみがえる久田の歴史

 まず4~6月に、かなぼれB遺跡(確認調査、A・B区)を調査しました。続いて箱E遺跡(3区)の全面調査を5~7月で完了させ、6~10月は水没予定地の下黒木<しもくろぎ>遺跡とその間7~8月に城峪城跡北散布地の確認調査を行い、10~12月に再びかなぼれB遺跡(C区)を調査、11~翌3月までは夏栗遺跡全面調査と断続的に勝の段<かつのだん>遺跡の確認調査…と書いているだけで目が回るほど度々移動しながらの調査となりました。この中で特筆すべきは箱E遺跡で、縄文時代早期・中~後期・晩期の土器と縄文草創期の尖頭器が出土しました。下黒木遺跡では14~15世紀の掘立柱建物を4棟確認しました。

下黒木遺跡_調査風景写真
<写真>平成14年 下黒木遺跡の調査。頭上で湖岸道路に架ける橋脚工事が進んでいる。

 以上のようにこの地域は、縄文時代から近世にかけて山陰と山陽をつなぐ交通の要衝として大変栄えたことがわかりました。地元の方々にも地域の魅力を見直すきっかけになったと強く思います。

 こうして、調査は平成16年度に夏栗遺跡の全面調査で幕を閉じました。総調査面積223,860平方メートル、参加した調査員だけで延べ398人を数え、美作地域では最大で、これからもこの規模を超えることはない発掘調査と言えるでしょう。その成果は、報告書として残されており、現在では湖の底に隠れていても今なお光を放ち続けているのです。

 

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