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平地のすまい

更新日:2020年5月1日更新

平地のすまい

1 山城と平地のすまい

 山城は、戦いが起こった時に臨時にたてこもるための軍事施設です。そのため、武士達は平時においては、平地にすまいを構えました。しかし、戦国時代に入り抗争が多発するようになると、すまいの周囲に高い土塁<どるい>と深い堀を築いて守りを固めるようになります。今回は、こうした戦国時代の平地のすまいについてお話しします。

2 守護のすまい

 鎌倉時代には、守護が国ごとに任命され、主に軍事指揮官として活動しました。こうした守護、あるいは守護の代官である守護代のすまい、政務所として設けられたのが守護所<しゅごしょ>です。津山市院庄館跡<いんのしょうやかたあと>(国指定史跡)はこうした守護所の一つと考えられています。吉井川とその支流である香々見川などが形成した沖積平野の中央にあります。上から見ると四角い形をしており、その規模は東西約150m、南北250mにも達します(第1図)。

守護所と周辺の地形

第1図 院庄館跡とその周辺に残る地割り ※『史跡院庄館跡発掘調査報告』 津山市教育委員会 1974年より引用、一部加筆

 現在、作楽神社<さくらじんじゃ>の建つ守護所の周囲には、高さ0.5~1m程の土塁がめぐり、さらにその外側には堀が掘られています。発掘調査の成果から鎌倉時代に成立した後、室町時代まで存続していたことが分かっています。また、堀の深さは約60cm、幅も3m程しかなかったことも判明しています。出土遺物の年代から戦国時代まで使われていた痕跡は見いだしがたく、室町時代のうちには衰退したようです。こうした守護所衰退の背景には、応仁の乱を契機とした室町幕府や、美作国<みまさかのくに>の守護であった赤松<あかまつ>、山名<やまな>氏の威信低下があると思われます。しかし、守護所の四角い形、館の周囲に土塁と堀をめぐらす構造などは、戦国武士のすまいに引き継がれました。

3 戦国武士のすまい

 岡山市中区の旭川が形成した沖積平野に位置する中島城跡<なかしまじょうあと>は、永禄10 (1567)年頃に起こった明禅寺合戦<みょうぜんじがっせん>に際してその名が見える有力武士、中島<なかしま>氏の館跡と想定されています。発掘調査の成果により、その敷地は一辺約50mの方形で、周囲を幅7~10m、深さ約3mの堀がめぐっていることが明らかとなりました(第2図、写真1)。また、堀に沿って土塁の存在していた可能性が指摘されています。堀の内側で建物が10棟以上も見つかりました。そのほとんどが建物の形に添って柱を設ける側柱<がわばしら>建物ですが、建物内部にも柱穴が見られる総柱<そうばしら>建物も見られます。これらは中島氏のすまいであったものと思われます。中島城跡は院庄館跡と比べると規模こそ小さいですが、堀の深さや幅は大きく、軍事的機能は勝ります。また堀からは鎧の破片が出土しており、堀の構造と併せて、戦国時代における緊張をよく伝えるものと言えます。

中島城跡遺構配置図
第2図 中島城跡の様子

中島城跡の堀
写真1 中島城跡の堀

4 「居館(すまい)」と「詰(山城)」

 戦国時代の半ば、天文(1532~1555)年間頃には各地で所領をめぐる戦いが常態化します。これに併せて、武士達はすまいである「居館」の近くに、「詰<つめ>」と呼ばれる山城を築いて戦いに備えました。ここでは新見市にある備中国北部の有力武士、田(多)治部<たじべ>氏のすまいと山城を見ていきましょう。田治部氏館跡<たじべしやかたあと>(新見市指定史跡)は、中世に新見荘の中心部があった新見市街地から、同市大佐を経て美作国へ抜ける間道沿いにあります。発掘調査により建物群が見つかっています(写真2)。出土遺物から、館跡は鎌倉~江戸時代まで継続していたことが判明していますが、16世紀半ば~後半の遺物、遺構が最も多く見られます。ちょうどその頃、『備中兵乱記』などの軍記物に登場する、田治部雅楽頭景春<たじべうたのかみかげはる>が活動していました。そのため、これら建物群は景春のすまいであったとも考えられます。
 さて、この田治部氏館跡の南東1kmの山上に、塩城山城跡<しおぎやまじょうあと>(新見市指定史跡)があります(写真3)。この城はその位置関係から、田治部氏の「詰め」城であったと見られます。 

田治部氏館跡で見つかった建物群
写真2 田治部氏館跡の建物群

田治部氏館跡と塩城山城跡
写真3 田治部氏館跡と塩城山城跡

5 戦国大名のすまい

 各地域で起こった戦いを勝ち抜き、数郡から数カ国までも支配した有力武将のことを戦国大名<せんごくだいみょう>と呼びます。岡山の戦国大名としては、備前国<びぜんのくに>の浦上<うらがみ>氏、浦上氏を倒し、備前国<びぜんのくに>から美作国<みまさかのくに>、備中国<びっちゅうのくに>、播磨国<はりまのくに>の一部まで勢力を広げた宇喜多<うきた>氏、備中国の三村<みむら>氏などを挙げることができますが、そのすまいについては明らかではないため、ここでは福井県一乗谷朝倉氏遺跡<いちじょうだにあさくらしいせき>にある朝倉館を見てみたいと思います。
 一乗谷朝倉氏遺跡は戦国大名越前朝倉氏の城と城下町です。朝倉館は城下町の中心部に位置し、敷地は約100m四方の広さがあり、山裾に接する東を除く三方に高さ約1~3mの土塁と幅約8m、深さ約3mの堀をめぐらしています。三方の土塁には、それぞれ門を開き、西を正門としています(第3図)。
 敷地内のやや北東よりには10数棟の建物が整然と建ち並んでいます。多くの建物は、東西約21.4m、南北約14.2mを測る「常御殿<つねごてん>」と呼ばれる最大の建物を中心に、その南方の庭園を取り囲むように配された表向き(接客)施設、北方の台所などのき(日常生活)施設、土塁上の隅櫓<すみやぐら>などの警護施設に別かれます。
 こうした戦国大名のすまいの形や構造は、室町時代の守護所の系譜に連なるものです。一方で深い堀と隅櫓による防御線は近世城郭に受け継がれる要素と言え、新旧の要素を併せ持っているとも見ることができます。

朝倉館復元平面図
第3図 朝倉館復元平面図  ※「付図2朝倉館跡遺構全測図」(『朝倉氏遺跡発掘調査報告1』福井県教育委員会 1976年)をもとに、「朝倉館復元平面図」(『一乗谷』福井県立朝倉氏遺跡資料館 1981年)を合成、一部加筆

6 城下へすまう

 織田信長<おだのぶなが>、そしてその天下統一事業を継いだ豊臣秀吉<とよとみひでよし>は、征服した土地で「城破<しろわり>」を命じました。併せて、おのおの活動拠点におかれていた武士のすまいを、城下へ移動させました。城のふもとに開かれた城下町は、いうなれば平地のすまいの集合体であったのです。こうしたすまいの移動は、徳川幕府<とくがわばくふ>の開かれた江戸時代にも継続されます。岡山城下では絵図の分析などから、遅くとも寛永9(1632)年の池田光政<いけだみつまさ>の入部までには、すまいの移動が完成したようです。こうしたすまいの移動は、徳川将軍と大名を頂点とする、新たな封建体制<ほうけんたいせい>の誕生を反映したものと思われます。

目次

項目 内容
城をまもる 城の防御施設についての解説
城のかなめ 城の内部施設(おもに曲輪についての解説)
城の出入り 城の出入り施設・構造についての解説