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31年間に及ぶ長期発掘調査!!―百間川遺跡群―
文/岡山県古代吉備文化財センター 高田恭一郎
百間川は、今から330年ほど前、江戸時代前期に築造された旭川の放水路です。その流れは、岡山城下の上流で旭川から東に分かれ、操山丘陵の北裾から東端を回って南側の児島湾に注ぐものです。長さは約13キロメートルを測ります。
岡山市街を洪水の氾濫から長年にわたって守り続けてきた百間川ですが、その制御調節能力を超える洪水はたびたび起きており、その都度、改修計画と工事が行われてきました。やがて、昭和49年に本格的な改修工事が始まり、分流部の整備をもって令和元年に完了しました。
この工事計画に伴い、百間川の河川敷内等に所在する埋蔵文化財の発掘調査を昭和52年から実施し、平成29年に終了しました。対象遺跡は、分流部から順に、百間川一の荒手及び背割堤、百間川二の荒手、百間川原尾島遺跡、百間川沢田遺跡、百間川兼基・今谷遺跡、百間川米田遺跡(以下、百間川は略称します)です。31年間に及ぶ長期調査の総面積は約22万平方メートルにもなり、百間川築造以前の様子や現代に受け継がれて機能する治水施設の構造等が明らかになりました。また、出土品の合計箱数は9,000箱を越え、現在(令和6年度)センターが保管する総箱数のおよそ5分の1を占めています。
「センター開所」以前
本調査開始後の5年間は、暫定通水のために急がれた幅40メートルの低水路掘削箇所や用水路、樋門(ひもん)、サイフォン、橋脚などの各調査区を実施しました。百間川の調査体制のピークとなる昭和54~56年度は、6班13名の調査員が対応しました。高密度に遺構が残る沖積地の複合遺跡を広範囲に掘るという、初期の調査に携わった先輩諸氏の苦労は計り知れません。
その後の5年間(昭和57~61年度)で低水路幅60メートルまで、さらに平成23年度までに工事計画幅の80メートルまでを調査しました。それらの調査の際、大いに参考となりかつ検証の対象にもなったのが、先行する調査成果です。また、用水路や樋門の調査が、より広範囲の集落立地や水田経営等の理解につながるなど、百間川における長期調査の特徴といえます。
低水路調査区の発掘風景(原尾島遺跡、昭和54年、北から)
奥に操山が見えます。その手前に旧右岸堤防があります。中央の市道はその後撤去されました。
現在の河川敷(北から)
低水路が掘削され、堤防も整備されています。
調査について
弥生水田
百間川遺跡群を全国的に著名なものとしたのが、弥生時代後期の「小区画水田」の広がりです。昭和53年1月の発見以来、約9万平方メートルを調査しました。最も堆積した場所で60~70センチメートルにもなる、後期末の洪水砂を除去することで埋没時の状態が現れます。洪水砂で同時に埋まった灌漑(かんがい)用水路も見つかっていて、複雑な水路配置から当時の灌漑技術の高さを知ることができます。
ちなみに、小区画水田での田植え再現写真は、本来は水田全景の記録写真として撮影予定でした。しかし前日の雨で調査区が水浸しとなってしまったため、急遽水中ポンプを使って水を張り、人を入れて撮影したものです。「田植えの再現写真を撮るから、そのへんの草をちぎって苗を植える格好をしてくれ」と、調査担当者から隣の地区で調査中の筆者にも声がかかりました。逆転の発想から生まれた1枚です(なお今では、直まきだったとする説もあります)。
小区画水田での田植え再現(沢田遺跡、昭和61年)
中央の太い高まりは「島状高まり」です。手前に大畦畔(だいけいはん)、その他の細い線が小畦畔(しょうけいはん)です。
弥生時代後期末の用水路群(沢田遺跡、昭和62年、南から)
洪水砂で埋没していたことから、水田と同時に機能していた灌漑用水路と考えられます。縞模様は等高線コンターです。水で溶いた石灰をハケを使って描いています。
増水対策
現在センターが発掘調査を実施している酒津遺跡は、高梁川本流の中州に位置するので、高梁川の増水が直接調査に大きく影響します。それに対して百間川では、旭川から溢れた水が荒手を越流して一気に百間川に流入することで、調査に影響を与えるという違いがあります。31年の間には、越流による現場の水没が何度かありました。
「荒手を越えた濁流が高い壁のようになって押し寄せてきた」「水が引いた後は、溜まった泥や打ちあがった魚の片づけが大変だった」とは、原尾島遺跡での現場水没を体験した作業員さんに聞いた話です。百間川の調査では、旭川上流のダム放水量で越流の危険性を判断していました。毎年6~10月の出水期は、大雨洪水警報が発令されるたび、ダム放流量についての確認電話を関係各所に掛けていました。
ただ、現場水没への備えとして、上流にのみ目を向けていれば良いというものではありません。児島湾の高潮による下流側の排水調整が行われたときは、百間川の水位が上昇したため今谷遺跡の調査区が水没するということがありました。
水没した調査現場(原尾島遺跡、平成10年10月、北から)
撮影時の水位は、最高水位から2メートルほど下がった状態です。中央に見えるのは、水流で倒壊した道具小屋の一部です。
発掘調査員
「百間川は怖い」、「百間川では若手調査員が作業員に試される」とは、百間川の調査が終了した現在では通用しない、平成10年頃の若手調査員間のウワサ話です。当時の若手からすれば、親よりも年長で、沖積平野の遺跡の発掘経験が20年以上の作業員さんとの仕事に緊張したのかもしれません。
しかし、怖い思いをしたのかはいざ知らず、長年積み上げた沖積地の「土を見極め」、「早く正確に遺構を掘る」という、皆さんの技術にはいつも助けられていたのは事実です。
学生アルバイト
さて、筆者はセンター入所前に学生アルバイトとして百間川で働いたことがあります。大学1年生の夏の4週間、スコップを握って沢田遺跡の洪水砂をひたすら掘り下げました。当時の担当者からは、「発掘1年目は掘るばぁーじゃ。スコップの使い方からじゃの」「沖積地の土を覚えんといけん」といわれました。3年生の夏には土坑や井戸の図面作成を担当しました。また、昼休みや勤務後の事務所で土器実測の練習をさせてもらったこともあります。
昭和の終わり頃まででしょうか、長い休暇時を中心に多いときで3~4名の考古学専攻生が働いていたと記憶しています。その後センター職員や、県内外の自治体の埋文担当者として勤務している人もいます。忙しい現場の実測要員として即戦力を求めつつも、学生を現場で育てるのが当然、という雰囲気があったように感じます。
公開活用について
長期にわたる調査だからこそですが、年中行事として地元小学生の見学説明、地元イベントへの出前展示等を行っていました。
毎春、徒歩で現場を訪れる近隣3~4校の小学生見学への説明用として竪穴住居を復元し、その内外で火起こし体験等を実施しました。屋根材となる稲藁は農家の作業員さんにからもらったりしました。年度当初にまず、復元住居を建てて炉を築けば、その年の小学生を迎える準備が出来たということで、ほっとした覚えがあります。また、火起こし具の弓は、大工経験者の作業員さんに依頼して作ってもらいました。このときの舞きり弓はいまだに現役で、センター主催の「津島遺跡やよいまつり」等で活躍しています。
百間川の河川敷で春と秋に開催される地元イベントでは、前年度の調査成果等を出土品やパネルで紹介する展示を行いました。年によっては展示に加えて、籾すりや火起こし、土器に触れる体験、クイズなどをしたこともありました。
センターが実施する子供向け体験の始まりは、昭和61年夏にセンターで開催した「考古教室」ですが、百間川などの現場で行っていた子供向け体験が活かされたのでした。
小学校見学の様子(沢田遺跡、昭和62年)
復元住居の屋根半分は藁(わら)を葺(ふ)かず、内部や構造が見えるように工夫をしています。
百間川遺跡群発掘調査の歩み
年度 | 調査関連の概略 | 主な発見・出土品 ※( )内は百間川の各遺跡名 |
昭和49(1974)年 | 建設省(現国土交通省)による改修工事開始 | |
昭和51(1976)年 | 確認調査実施 | |
昭和52(1977)年 | 本調査を開始 調査員7名3班体制 | 弥生時代後期末の小区画水田を発見(沢田遺跡) |
昭和53(1978)年 | 調査員10名5班体制 | 弥生時代中期の掘立柱建物群を発見(今谷遺跡) |
昭和54(1979)年 | 調査員13名6班体制(以降、昭和56年度まで) | 奈良時代の倉庫群を発見(米田遺跡) |
昭和55(1980)年 | 8月、大雨により調査区水没 「百間川原尾島遺跡1」報告書(シリーズ1冊目)刊行 | 弥生時代後期の井戸から彩文土器出土(原尾島遺跡) |
昭和56(1981)年 | 低水路幅40mの調査終了 | |
昭和57(1982)年 | 調査員6名3班体制(以降、昭和61年度まで) | |
昭和59(1984)年 | 【11月、センター開所】 | 弥生時代前期の水田を発見(原尾島遺跡) |
昭和62(1987)年 | 調査員3(4)名1班体制(以降、調査終了まで) | |
昭和63(1988)年 | パンフレット「百間川の遺跡群」刊行 | 平安時代の溝から「大祓」の品々が出土(原尾島遺跡) |
平成9(1997)年 | 中世と近世の橋を発見(米田遺跡) | |
平成10(1998)年 | 10月、大雨により調査区水没 | 溝で囲った弥生時代後期の大形住居を発見(原尾島遺跡) |
平成12(2000)年 | パンフレット「百間川の遺跡探検」刊行 | |
平成17(2005)年 | 調査休止 | |
平成22(2010)年 | 調査再開(低水路) | 弥生時代前期の環濠北端部を調査、これにより環濠集落のほぼ全容が明らかとなる(沢田遺跡) |
平成23(2011)年 | 低水路幅80mまでの調査終了 | |
平成24(2012)年 | 調査休止 | |
平成26(2014)年 | 調査再開(分流部) | 分流部の背割堤暗渠を確認(一の荒手及び背割堤) |
平成29(2017)年 | 調査終了 | |
平成30(2018)年 | 「百間川一の荒手及び背割堤・百間川二の荒手2」 報告書(シリーズ20冊目)刊行 発掘調査事業終了 | |
平成31・令和元(2019)年 | 改修工事完了 |
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