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山をひらき「山」をつくる

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 中原 香織

 

 古墳の名称を思い浮かべてください。

 岡山県内の三大古墳といえば、造山、作山、両宮山です。ほかにも築山、金蔵山、植月寺山、小造山など、「山」とつくものがたくさんあることに気がつきます。古墳の名称は地名を冠したもののほかに、昔から呼び習わされたものがあります。大形の古墳は、見上げるほどの大きさで、先人が「山」と呼んだのもうなずけます。

 今から1,400から1,700年前の、各地で古墳づくりがさかんに行われた時代は古墳時代と呼ばれます。特に前半期は限られた首長の権威の象徴として、巨大な古墳がつくられました。  
 
 現在では墳丘の形がくずれ、草木が茂り、大きさだけでなく見た目も山林とあまり区別がつかないのですが、つくられた当時は円形や方形あるいはそれを組み合わせた前方後円形など、幾何学的な平面形で、2段・3段と高く土を盛り、表面を葺石でおおいつくすなど、自然の山とは明らかに異なる人工構築物でした。
 さて、「山」と呼ばれる巨大な古墳はどのようにしてつくられたのでしょうか。

 岡山市造山古墳は、墳長約360mの巨大前方後円墳です。この古墳すべてが土を盛ってつくられたわけではなく、墳丘の下段は江田山からのびた低い舌状台地の先端を切断して基盤としています。前方部前端には幅25から30m、長さ230m、深さ4から6m切り通しがあり、この部分の掘削土量は20,000立方メートルと算出されています。
 切り離された丘陵は、樹木の伐採や整地作業をした上で、盛土によってさらに墳丘を築き上げ、前方後円形に整えられました。墳丘斜面は葺石でおおい、墳丘上には埴輪が並べられました。全工程にはのべ150万人もの労働者が必要であったとの試算もあります。

造山古墳 上空から(上が江田山、矢印が切り通し)
造山古墳 上空から(上が江田山、矢印が切り通し)

切り通し 写真左側が造山古墳、右側がもとの丘陵
切り通し 写真左側が造山古墳、右側がもとの丘陵

 大形古墳をつくるときには、丘陵を切り離して墳丘の基盤とすることが一般的に行われていました。全長286mの前方後円墳である総社市作山古墳は、独立丘陵を利用してつくられていますが、前方部前端に削り残されている墳丘との間には幅約8mの切り通しが掘削されています。

作山古墳 上空から(矢印が切り通し)
作山古墳 上空から(矢印が切り通し)

切り通しと残丘
切り通しと残丘

 全長150mの前方後円墳である岡山市坂古田堂山古墳は、大平山西麓の太閤岩からのびた丘陵を切断することで形づくられており、後円部側に底の幅12mの切り通しが掘削されています。
 全長90mの前方後円墳である勝田郡勝央町植月寺山古墳は、後方部側に切り通しが掘削され、前方部周辺は平坦に整地されています。

植月寺山古墳 切り通しから後方部をのぞむ
植月寺山古墳 切り通しから後方部をのぞむ

 「山」と称するほど大きな古墳でなくても、地形の加工や利用は行われます。中小規模の古墳は尾根上や丘陵頂部につくられることが多く、もとの地形を墳丘の形に加工して利用しています。
 久米郡美咲町月の輪古墳は、大平山山頂にあります。円墳としては大形の直径60m、高さ10mの墳丘ですが、盛土は頂部3m部分だけで、大半はもとの地形を整形してつくられています。墳丘のまわりも平坦に整地しており、盛土のための土取りのほか、墳丘を際立たせる効果もあったようです。

月の輪古墳 平坦面から墳丘をのぞむ
月の輪古墳 平坦面から墳丘をのぞむ

 古墳時代前半期において、人々は山林を切り開き、尾根や山頂を加工し、ときには丘陵の一部を切り離して古墳をつくりました。古墳づくりとは本来そこにあった自然の山を破壊して、人工的に構築物につくりかえることといえます。
 古墳時代後半期にはいると、大形の古墳はつくられなくなりますが、古墳をつくる階層のひろがりにともなって小規模な円墳がたくさんつくられました。前半期ほど地形を加工しないものの、丘陵はまたたくまに古墳でおおわれました。結果的に古墳時代には自然地形の改変が広範に進行していきました。

 各地につくられた人工の「山」である古墳は、大規模な自然環境破壊の幕開けを象徴するモニュメントということもできるのです。

 

※2012年11月掲載