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ゴミの山か、宝の箱か -室戸台風被災品の調査始末記-

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 岡本 泰典

 

 「どれくらい新しい時代のものまで、考古学の対象になるんですか?」
 よく聞かれる質問の一つだが、なかなか一言では答えにくい。「理屈のうえでは現代でも対象になります。でも、現実に発掘調査するのは、普通は江戸時代までですね。ただ、明治以降でも場合によっては・・・」などと、いささか歯切れの悪い答えを返すことになる。いずれにしても、近現代の遺跡―と呼ぶこと自体も議論があろう―が発掘調査の対象になりにくいのは事実だ。

 ところが、思いがけない事情から、そんな希有(けう)な機会が巡ってきたのである。

 今から72年前、昭和9年(1934年)9月21日のこと。フィリピン沖で発生した超大型の室戸台風は、四国から中国、近畿地方を暴風圏に巻き込みながら縦断し、死者3,036人におよぶ甚大(じんだい)な被害をもたらした。
 岡山県内では死者145人、負傷者348人と記録されている。県北部での大雨に伴い、岡山市内でも21日の早朝から旭川の水位は徐々に上昇、ついに堤防を越えて濁流が市街地に流れ込んだ。
 折からの満潮も災いして、水深はところによって人の背丈をも上回り、人々は家財道具をかえりみる余裕もなく2階へ避難するだけで精一杯であった。

 岡山市内の死者は13人。ようやく水が引いた翌日、市民の眼前には一面泥の海と化し、流出したゴミで埋め尽くされた無惨な街の姿があった。
 早速、官民挙げて懸命の復旧活動が行われ、集められたゴミや建物の残骸は市内の数か所に埋め立て処分されたという。近代都市・岡山にとって、まさに未曾有(みぞう)の洪水被害であった。

洪水時の水位を示す銘板。(岡山市丸の内 中国銀行本店前に設置)。海抜6.13m、現在の地表面から約1.65mの高さにある
洪水時の水位を示す銘板。(岡山市丸の内 中国銀行本店前に設置)。海抜6.13m、現在の地表面から約1.65mの高さにある。

 時は流れて平成15年(2003年)4月。岡山市いずみ町の県総合グラウンド内、県立体育館「桃太郎アリーナ」建設予定地では、工事に先立って津島遺跡の発掘調査が行われていた。
 新たな調査区に着手すべく、表土除去のため重機のバケットが地面を切り裂く。と、薄い表土の下からのぞいたのは、どす黒い汚泥(おでい)の層と、無数の廃材、陶磁器や看板の破片。

 訝(いぶか)しく思ったその瞬間、以前の調査時に聞いた、地元の老人の言葉が脳裏に蘇(よみがえ)る。「昭和9年の水害の時に出たゴミを、この辺に埋めて処分したんじゃ」・・・。

 掘削作業は続き、おびただしい量のゴミが土砂とともに調査区の脇へ積み上がっていく。とても発掘現場とは思えない光景だ。
 調査区の壁面からは油の浮く水がにじみ出し、何とも形容しがたい臭気が漂い始めた。69年間の封印を解かれ、空気に触れたゴミや汚泥が再び分解を始めたのかもしれない。

 さて、担当者一同はゴミの山を前に思案顔である。時代的にはほとんど現代に近く、埋蔵文化財とは認めがたいが、さりとて、昭和初期の都市生活を物語る貴重な品々である。多くは破損しているにしても、その種類と量は、ちょっとした展覧会が開けるほどだ。
 単なるゴミとして、土砂とともに廃棄するのはあまりに惜しい。あれこれ迷った末、何らかの保存策がとられることを期待して、とりあえずは事務所に持ち帰ることにした。

 それからしばらく、現場と調査事務所とでは、積み上げられた泥の山からゴミをより分け、水洗する作業に明け暮れる日々が続いた。ガラス瓶、陶磁器、昔懐かしいホーロー看板。
 触れることすらためらわれるゴミだが、洗い流すと汚泥の下から鮮やかな原色が顔を出す。普段は土器の褐色ばかりが目につく事務所内が、にわかに色彩を帯びてきた。

 そしてついに、待ち望んでいたものが現れた。といっても、一見して何の変哲もない古新聞の束である。新聞は現在の「山陽新聞」の前身である「中国民報」。
 水を吸ってくっつきあった新聞紙が破れないよう、慎重に剥(は)がして乾燥させ、記された日付を読み取っていく。日付は昭和7年6月22日に始まり、洪水直前の昭和9年6月3日で終わっている。
 そして洪水以後のものは全く見当たらなかった。つまり、このゴミが洪水に伴って発生したことが「出土文字資料」からも裏付けられたことになる。

 当時の被災状況をまとめた『岡山風水害史』(小林健二著、中国聯盟出版部、1934年)という本にも、当時ここにあった陸軍練兵場内にゴミを埋めて処分したとの記述があり、まさに検出状況と一致する。当時の記録、古老の証言、出土した新聞の日付。それぞれが補い合って、ゴミの正体が明確になり、その資料的価値はさらに高まったのである。
 発見以降、重要性を認識しながらも新しさゆえに扱いかねていた資料だったが、内容の豊富さに加え、発生日時が特定されたことが決定打となった。津島遺跡検討委員会の先生方からの指導も受け、最終的に民俗資料としての保存が決まったのである。

調査区の土層断面。壁面の上半分を占める、どす黒い層が、水害に伴うゴミの集積。なお一番下の薄く黒い層は弥生前期の水田。
調査区の土層断面。壁面の上半分を占める、どす黒い層が、水害に伴うゴミの集積。なお一番下の薄く黒い層は弥生前期の水田。

掘り出されたばかりのゴミ。手前にホーロー看板、その奥に陶器製の醤油樽が見える。
掘り出されたばかりのゴミ。手前にホーロー看板、その奥に陶器製の醤油樽が見える。

 さて、それでは出土品を概観してみよう。

 まず、何より目立つのはホーロー看板だ。カラーの印刷物がまだ少なかった時代、店先や外壁に掲げられた色鮮やかな看板は、道行く人々の目を引きつけたことだろう。
 自転車、足袋(たび)、化粧品、石鹸(せっけん)、ワインなどなど。赤や青の原色を背景に、商品名を大書しシンボルマークを配した、素朴だが力強いデザインが印象的だ。
 石鹸、ワイン、お菓子などに、今も現役の会社名や商品名を見つけると、身近な品物にも意外に長い歴史があることを実感させられる。チョコレートや飴の広告は、当時の子どもたちの甘味欲をいたく刺激したに違いない。

 看板は商業活動や広告デザインの貴重な資料だが、それだけではない。例えば、岡山県が設置した「済世(さいせい)顧問・済世委員」という看板がある。
 済世顧問・委員とは、それぞれ大正6・10年(1917・21年)に創設された岡山県独自の制度で、生活困窮者への援助などを通じて、貧困の解消を目指す社会事業の一環であった。当時の世相を垣間(かいま)見ることができる資料といえよう。 

岡山県が設置した「済世顧問・済世委員」の看板。生活上の困りごとを抱える人たちに、顧問・委員への相談を呼びかけている。
岡山県が設置した「済世顧問・済世委員」の看板。生活上の困りごとを抱える人たちに、顧問・委員への相談を呼びかけている。(写真提供:岡山県立博物館)

 次に、最も多く採取されたガラス瓶を見てみよう。この頃には瓶の製造も既に機械化されており、明治初期のように気泡やゆがみの目立つものは少ない。
 飲料の容器が多いが、中身が特定できるものにはビール、ワイン、牛乳、ラムネなどがある。調味料としてはソースや酢、中にはケチャップ瓶まで。戦前にケチャップがあったとは少々意外だ。
 今ではすっかり姿を消したインク瓶も数多く出土した。学校や事務所、書斎でペンとともに大活躍したことだろう。茶色や青色をした薬品瓶は、実験室や病院を連想させ、ちょっと物騒だ。
 化粧品のクリーム瓶は、今と同じく白色で不透明なものが多い。蓋付きのものには、中身が残っていそうだが、さすがに試してみようという勇者は誰もいなかった。

 陶磁器は茶碗や皿、湯呑みなどの食器類が最も多く、中にはほとんど損傷のないものまでが捨てられている。汚泥をかぶり、所有者を特定しようもなく、まとめて廃棄されたのだろう。
 商店名が書かれた酒徳利(さけとっくり)や醤油樽(しょうゆだる)からは、威勢のいい売り声や、客と店主との賑(にぎや)やかなやりとりまで聞こえてくるようだ。
 面白いのは、愛知県の瀬戸で焼かれた東海道本線の汽車土瓶。駅弁とともに売られたお茶の容器で、「鉄道局指定」の文字が入る大正時代から戦前にかけての製品だ。旅路の終わりに、駅のゴミ箱へでも捨てられたのだろうか。

愛知県の瀬戸で焼かれた汽車土瓶。湯呑みを兼ねた蓋がつく。手前の面に「鉄道局指定 お茶」の文字、反対側には「空壜は腰掛けの下へ置くかお持ち帰りください」との注意書きがある。
愛知県の瀬戸で焼かれた汽車土瓶。湯呑みを兼ねた蓋がつく。手前の面に「鉄道局指定 お茶」の文字、反対側には「空壜は腰掛けの下へ置くかお持ち帰りください」との注意書きがある。(写真提供:岡山県立博物館)

 ほかにもまだまだある。こたつ、人形、輪ゴム、おはじき、布地、洗面器、馬の蹄鉄(ていてつ)、鉛筆、下駄、採取はされなかったが無数の木材や畳までも。昭和9年6月21日時点の衣食住、あらゆる生活領域が凝縮されている。洪水という大災厄が、皮肉にも当時の都市生活を現代にまで伝えてくれたわけである。

洗浄、整理された出土品の一部。ホーロー看板、ビール瓶、インク瓶、醤油樽、酒徳利、人形、杯などがある。(前の写真と比較してください)
洗浄、整理された出土品の一部。ホーロー看板、ビール瓶、インク瓶、醤油樽、酒徳利、人形、杯などがある。(前の写真と比較してください)(写真提供:岡山県立博物館)

 さて、これらの出土品は平成15年度中に岡山県立博物館へ移管され、めでたく永久保存が実現した。その数、401点。
 同館では、出土品に詳細な解説を添えて「70年前のタイムカプセル-昭和9年室戸台風の残していったもの-」と銘打った企画展が開催され、来館者の好評を博した。

 分かりやすくレイアウトされ、その来歴を綴(つづ)る解説板とともに並ぶ民俗資料に、発見時の不潔さなど微塵(みじん)も感じられない。
 70年前の都市生活、大水害、そして市民が一丸となって取り組んだ復旧活動のありさまを、無言かつ雄弁に、我々に語りかけてくれる。
 ご年配の見学者たちが「ああ、こんなのあったねえ」と懐かしそうに語り合っている。その視線の先には、晴れて博物館への仲間入りを果たした看板、ガラス瓶、陶磁器たちが、ライトを浴びて美しく照り輝いていた。

 執筆にあたり、岡山県立博物館の協力を得ました。出土した資料については、同館ホームページの「デジタルミュージアム」で全点を閲覧することができます。
 (岡山県立博物館ホームページを御覧になりたい方はこちらから。)

 

※2014年12月掲載