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限りある資源を大切に

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 上栫 武

 

「まがね吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」これは『古今和歌集(こきんわかしゅう)』に掲載された歌です。吉備の枕詞(まくらことば)である「まがね吹く」は「鉄を作る」と解釈され、吉備で鉄生産が盛んだったことを示すと考えられています。
 また平城京出土の木簡から、奈良時代に、備前国・備中国・美作国は鉄を税として納めたことが明らかで、そのことからも古代吉備における鉄生産の盛んな様子がうかがえます。

 しかし、平安時代には、おおよそ次のような記録が残されています。「備前では鉄が産出しない。そのため納税のたびに鉄を買っていた。これからは鉄での納税をやめたい」(796年11月3日)。
 まるで備前ではもともと鉄を作っていなかったような書きぶりです。また『延喜式(えんぎしき)』に記載された10世紀前半の鉄納税国には、備中・美作はありますが、備前は見当たらず、奈良時代の納税状況とは異なっています。

 どうやら平安時代の吉備、特に備前では、鉄生産を取り巻く状況に、何らかの異変が生じたようです。しかし、その背景について、文字史料は黙して語りません。そこで発掘調査成果から変化の背景を探ってみたいと思います。

備前国赤坂郡周匝郷調鍬十口天平十七年十月廿日
備前国赤坂郡周匝郷調鍬十口 天平十七年十月廿日
付け札木簡(奈良県平城宮跡)(奈良国立文化財研究所年報1958-1959から引用)
写真は都に税を納める時に、税物に付けた木簡です。備前から鉄鍬(くわ)を送ったことがわかります。なお、天平17年は西暦745年です。

 まずは奈良時代までの状況をみてみましょう。日本における鉄生産は、古墳時代後期後半(6世紀後半)には始まっています。その中心は吉備で、製鉄遺跡は約30遺跡、製鉄炉は100基以上が発掘されており、他地域とは格段の差があります。
 特に備中の総社市域に集中しており、西団地内遺跡群・奥坂遺跡群の11遺跡で82基の製鉄炉が見つかりました。多数の製鉄遺跡からみても、やはり奈良時代までは「まがね吹く 吉備」という状況だったようです。

 このような吉備の鉄生産を支えた背景には、原料の豊富な存在が不可欠です。奈良時代以前には、製鉄原料として鉄鉱石と砂鉄を使用していたことが、出土遺物の分析から明らかです。
 備中の総社市の両遺跡群や新見市上神代狐穴(かみこうじろきつねあな)製鉄遺跡、備前の岡山市白壁奥(しらかべおく)製鉄遺跡・みそのお遺跡、赤磐市猿喰池(さるはみいけ)製鉄遺跡などは鉄鉱石を原料としていました。
 一方、砂鉄を原料とした鉄生産は、美作の津山市大蔵池南(おおくらいけみなみ)製鉄遺跡・緑山遺跡など、中国山地沿いの遺跡で確認していますが、遺跡数は前者には及びません。奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く 吉備」たらしめたと言えるでしょう。

鉄鉱石(岡山市白壁奥遺跡)
鉄鉱石(岡山市白壁奥遺跡)


(1)白壁奥遺跡(岡山市)
(1)白壁奥遺跡(岡山市)
(2)古墳時代の製鉄炉の復元模型
(2)古墳時代の製鉄炉の復元模型(和鋼博物館総合案内より引用)
(1)の真ん中にある穴に木炭をつめて、その真上に(2)に復元したような炉を粘土で築きます。この炉の中に鉄鉱石、砂鉄といった原料や燃料の木炭を入れて、熱して鉄を作っていました。なお、炉は操業後に解体します。

 ところで、江戸時代には「たたら」が中国山地を中心に発展しました。「たたら」は砂鉄を原料とすることが特徴で(『古代吉備を探る』の「たたら」を参照)、出土遺物の分析もそれを支持します。
 「たたら」成立直前の鎌倉時代から戦国時代でも製鉄原料は砂鉄で、新見市大成山たたら遺跡群や京坊たたら跡の調査成果がそれを裏付けます。

 前述のように、奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。
 つまり、文字史料から変化が読み取れた平安時代は、ちょうど原料が鉄鉱石・砂鉄両用から砂鉄のみに一本化する過渡的段階にあたると判断できます。そこで各原料の特徴と絡めて、平安時代の製鉄に生じた変化の背景について検討してたいと思います。

 砂鉄は花崗岩(かこうがん)の風化残留物で、中国山地を中心とする花崗岩地帯で大量に採取できます。「たたら」が中国山地を中心に発展した背景には、砂鉄の豊富な存在があげられます。
 対して鉄鉱石は産出場所・量が限られるため、枯渇(こかつ)が生産の枷(かせ)となります。713年、備前北半部の花崗岩地帯が美作として分国されました。分国のせいで備前では鉄鉱石が枯渇した時に、代わりの原料となる砂鉄が十分に調達できなくなったと言えます。
 製鉄が盛んになればなるほど鉄鉱石の使用量は増しますが、それだけ限りある鉄鉱石の埋蔵量は減少し、枯渇を早めます。

 つまり「まがね吹く 吉備」が示すような生産の隆盛が鉄鉱石の枯渇を早め、美作分国により砂鉄を十分に確保できなくなった備前では鉄生産が衰退しました。その結果、鉄による納税が困難となり、その窮乏(きゅうぼう)を訴える記録が796年に記されたのです。


 1970年代に日本をオイルショックの波が襲いました。オイルショックは中東戦争やイラン革命が引き起こしたものですが、石油の大部分を輸入に頼る日本では、石油が枯渇した時と同様の衝撃を受けました。
 その衝撃は家庭を直撃し、多くの主婦がトイレットペーパーを買いに走りました。この時のことを憶えている方も多いことでしょうし、テレビ局も懐かしい出来事として放映する場合があります。この時は石油の枯渇ではないので、政情の安定に伴い騒ぎも収まりました。

 しかし、平安時代の鉄に関する記事から考えたように、重要な資源が枯渇することも十分あり得ます。平安時代の製鉄工人は、鉄を作ることを生業としていました。
 原料である鉄鉱石の枯渇は、彼らの生活や習慣を一変させたことでしょう。このように生活習慣を一変させるような重要資源の枯渇が、今後とも起こらないとは限りません。

 資源枯渇を1000年以上前に起きたの出来事と片づけることなく、耳慣れて言い古された感がある「限りある資源を大切に」というフレーズの意味を、もう一度考え直したいものです。

 

※2004年8月掲載