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屋根の上から睨みをきかす

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 松尾 佳子

 

「鬼の目にも涙」「鬼に金棒」「渡る世間に鬼はなし」などの諺(ことわざ)や、最近では子供達に人気のテレビヒーローとして登場してくる鬼ですが、屋根の上にも鬼が見られます。棟の隅に飾りとして取り付けられ、雨水が漏れ入るのを防ぐ役割をもつ「鬼瓦(おにがわら)」です。

 この鬼瓦、皆さんが思い浮かべる姿(手づくりによる立体的な作りで、角をはやし、牙をむき出して大きく口を開けている)になったのは、鎌倉時代後期(700年前)以降で、そのころには現在のようにオニガワラと呼ばれていたようです。
 それ以前はどうなのかというと、笵(はん)という型に粘土を押しつけて作る薄い板状の焼き物で、デザインも蓮華(れんげ)など鬼以外のものが主流の時期もあります。また、当時の人々がどのように呼んでいたのかはよく分かっていません。

奈良県奈良市唐招提寺(とうしょうだいじ)
奈良県奈良市唐招提寺(とうしょうだいじ) 講堂(正面東側)の屋根と瓦

末ノ奥窯跡 鬼瓦(破片資料)『岡山県史』考古資料編から引用
末ノ奥窯跡 鬼瓦(破片資料)『岡山県史』考古資料編から引用

 考古学では、時代と共に変化し、また長い期間使用され続けてきたモノは、時間を計る「ものさし」として使用されます。例えば発掘調査などで、大量に瓦が捨てられた穴(土壙(どこう))が見つかったとします。
 パッと見ただけではいつの時代の物か分かりませんが、この中に鬼瓦などの特徴的な遺物があると、その形や作り方などから大まかな時期を確かめることができるという具合です。「瓦礫(がれき)の山」などの代名詞があるように、時として不要な物とされがちな瓦ですが、ものによっては、なかなかの優れものにもなりうるのです。

 それでは、岡山県で作られ使用された鬼瓦、特に古代の例から、鬼瓦の破片1つでどのようなことが分かるのか探ってみたいと思います。

 まず、岡山県で最古の鬼瓦ですが、総社市山手の末ノ奥窯跡(すえのおくかまあと)のものを挙げることができます。この鬼瓦、同じものが遠く離れた奈良県明日香村の豊浦寺(とゆらでら)跡や平吉(ひきち)遺跡から出土しています。
 蓮華をモチーフにしており、七世紀中頃に流行った当時最先端の鬼瓦と言えるでしょう。末ノ奥窯跡で作られた瓦は、この鬼瓦以外に軒丸瓦(のきまるがわら)も知られており、前述の豊浦寺へ運ばれていたと考えられます。
 実際に観察してみると、この末ノ奥窯跡産の瓦は焼きがあまく、断面の真ん中が黒いという特徴があります。それはまるでアンパンのようなので、遠く離れた奈良の地で多くの瓦に混じって出土したとしても、「岡山の末ノ奥窯跡産では?」と推察できるほどです。

 次に倉敷市真備町の箭田廃寺(やたはいじ)(吉備寺)の例ですが、これは蓮華をモチーフにした大変壮麗な鬼瓦です。この鬼瓦と同様のデザインで作られた軒丸瓦は、七世紀後半に岡山県南部のごく限られた範囲に建立された寺院群から見つかっています。
 その分布範囲は古代の備中国内に収まることから、特に「備中式軒丸瓦」と呼ばれたりもします。寺院の屋根に葺かれる瓦、特に一番目に付く場所に使用される軒丸瓦と鬼瓦のデザインを統一させる。
 これは、七世紀代に建立された多くの寺院に見られることですが、仏教美術に欠かすことのできない蓮華文で仏堂を統一し、荘厳化する意図を読みとることができます。

箭田廃寺 鬼瓦 『岡山県史』考古資料編から引用
箭田廃寺 鬼瓦 『岡山県史』考古資料編から引用

関戸廃寺 鬼瓦I類 笠岡市教育委員会『関戸廃寺』から引用
関戸廃寺 鬼瓦I類 笠岡市教育委員会『関戸廃寺』から引用

関戸廃寺 鬼瓦II類破片資料 笠岡市教育委員会『関戸廃寺』から引用
関戸廃寺 鬼瓦II類破片資料 笠岡市教育委員会『関戸廃寺』から引用

備中国分寺 鬼瓦(推定復元:葛原克人氏作図)『総社市史』考古資料編から引用
備中国分寺 鬼瓦(推定復元:葛原克人氏作図)『総社市史』考古資料編から引用

 和銅3(710)年、奈良の都平城京が造営されます。この時期からいわゆる鬼をモチーフにした鬼瓦が使用され始め、岡山県でも平城宮で用いられた鬼瓦の系譜下にあるものが出土しています。
 総社市の備中国分寺や笠岡市の関戸廃寺(せきどはいじ)例(鬼瓦II類)がそれです。破片資料なので全貌はうかがい知れませんが、大きく口を開けて牙をむき出しにする姿はいかにも鬼という感じです。

 以上、古代の岡山県で代表的な鬼瓦について概観してみました。全体像をうかがい知るものは少ないですが、破片資料であろうとも、その時代の背景や精神文化の一部を読み解くことができるのです。
 710年の平城京遷都を機に、鬼のモチーフを用いるようになった鬼瓦。岡山県で出土する古代の鬼瓦もその流れにのっていたことが分かります。

 邪悪なもの」とされている鬼ですが、その鬼を屋根の一番目立つ所に置く意味は、火災・落雷・水害などの人間では到底防ぐことができない自然の猛威や、説明のつかない事象・疫病などを遠ざける意味「辟邪(へきじゃ)の観念」が読みとれます。
 このような観念は、現代のようにあらゆる技術が発達した時代においてもみられるものですが、特に前近代の日本社会では強かったとされます。
 そういう社会の中において、建物内への「邪悪なもの」の進入を防ぐ役割をになって登場、存在し続けたのが、同じ「邪悪なもの」とされている鬼をモチーフにした鬼瓦といえるでしょう。

 

※2004年7月掲載