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糸を紡ぎ、布を織ること

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 團 奈歩

 

 自分で糸を紡(つむ)ぎ、布を織り、その布で着物を縫っていたのは、そんな遠い昔の話ではなく、戦前にはよく見られた光景であったといいます。これらすべてが手作業であった時代、生産力が低い糸や布は、貴重品であったことでしょう。

 縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけては、朝鮮半島からいろいろな新しい技術が伝えられます。稲作の技術などとともに、布を織る技術もまた、伝わってきました。
 すでに縄文時代に布は作られていましたが、ムシロを作るように多くのオモリを使って編んでいく方法だったため、非常に手間がかかります。このような編布は、太さや強度、長さが不揃いの糸でも布を作ることができるという利点があるのですが、太さや強さが均一な糸があれば、編むよりも織って布を作るほうが早くできます。

 このため、織る技術が伝えられた後には、布は織って作る織布が主流になっていきます。中国の歴史書である『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の中の記述に、「種禾稲紵麻、蚕桑緝績」とあります。つまり、3世紀(弥生時代)には、すでに植物を栽培してその繊維から、あるいは蚕(かいこ)を飼育してその繭(まゆ)から糸を得ていることがわかります。

 布を作るための糸の原料には、大きく分けて、動物性繊維の絹と、植物性繊維の大麻(たいま)【クワ科】や苧麻(からむし)【イラクサ科】などがあります。植物性繊維は、限られた長さの繊維を繋いで長くした後に、撚(よ)りをかけて太さや強さを均一にすることが必要です。
 この撚りを掛けるのに必要な道具を紡錘(つむ)といい、軸の部分の「紡茎」(ぼうけい)とはずみ車の「紡錘車」(ぼうすいしゃ)からできています。発掘調査をしていると、紡錘車が弥生時代以降の遺跡で多く出土します。
 弥生時代の紡錘車には、石製、土製に加え、土器の破片を加工したものなどがあります。石製の紡錘車は、黒色片岩(こくしょくへんがん)や頁岩(けつがん)などを原料に作られています。

 弥生時代前期から後期の集落が見つかっている岡山市の津島遺跡から出土した紡錘車の大きさや重さを測ってみると、大きさは直径4-5cm程度が多く、中心には直径0.5-0.8cmの孔が開いています。
 断面形が長方形のほか、楕円形に近いものがあるために、厚さは0.4-1.5cmとばらつきがあります。土器片を加工したものは薄く、土製品は厚みがあります。一番軽いもので約5g、重いものでは約30gとばらつきがあり、繊維の種類によってこの重さを替えていた可能性が考えられます。

紡錘(つむ)の構造
紡錘(つむ)の構造

石製紡錘車(上)、土製紡錘車(下)(弥生時代)
石製紡錘車(上)、土製紡錘車(下)(弥生時代)

土器の破片を加工した紡錘車(表面には、煮炊き時のススが付いています)
土器の破片を加工した紡錘車(表面には、煮炊き時のススが付いています)

 古墳時代の紡錘車には、新しく鉄製に加え、土製では須恵質のものが使われるようになります。
 古墳時代中期以降になると、石製のものは滑石(カッセキ)で作った断面形が台形のものが新しく使われ始めます。表面には、斜格子の模様を刻んでいる石製品も見られ、土製でもこの形が出土するようになります。鉄製の紡錘車は、古墳時代以降、古代や中世でも引き続いて使われます。

 軸の紡茎は木製が主流であったと考えられますが、古墳時代になると、勝央町の小中遺跡出土例のように滑石製の紡錘車に鉄製の紡茎を使用している事例もあります。鉄製の紡錘の紡茎が完全に残って出土している事例から、長さは約25-30cm程度ではないかと、推測されます。

 竹内晶子氏著『弥生の布を織る』の中では、30cm幅で長さ2m、糸の密度が1cmあたり20本の布を作るのに必要な糸の長さは約1,500mと計算されています。これだけの糸を紡ぐには、相当の労力が必要であったことは想像に難くありません。

土製紡錘車(古墳時代)
土製紡錘車(古墳時代)

小中遺跡(勝央町)出土の紡錘
小中遺跡(勝央町)出土の紡錘

 糸を紡ぐ作業は、中世から近世の絵巻物や絵図を見ると女性が行っていることが多いようです。
 岡山市の津寺遺跡では、12世紀後半の女性が埋葬されていたと考えられるお墓に、鉄製の紡錘が副葬されていました。他の副葬品に鏡や輸入陶磁器の合子(ごうす)や碗があることから、身分の高い人の墓であったと思われます。身分に関係なく、糸を紡ぐことをしていたのかもしれません。

津寺遺跡(岡山市)の土壙墓から出土した紡錘
津寺遺跡(岡山市)の土壙墓から出土した紡錘

 布を織る織機は木製のため、紡錘車に比べて出土例は多くありません。弥生時代に伝わった織機は機台のない簡易な構造で、経糸(たていと)の長さが制約されるため、布の幅は腰幅程度、長さは数mのものしか織れません。

 岡山市の百間川原尾島遺跡では、弥生時代前期の河道から、緯糸(よこいと)を手前に打ち込む「緯打具」(よこうちぐ)か、織り上がった布を巻き取るための「布巻具」(ぬのまきぐ)または経糸を固定する「経巻具」(たてまきぐ)と考えられる木製品が出土しています。

 古墳時代中期になると、須恵器を作る技術などとともに渡来系の人々によって織台のある新しい織機がもたらされ、広幅でかつ長い布が織れるようになりました。そして、一定の長さと幅の布を裁断して衣服を作る技術も、ともに伝えられました。
 最近ではあまり着ることのなくなった着物ですが、作り方は一枚の長い布(反物)を直線に裁断(さいだん)して縫製(ほうせい)します。この構造は、古墳時代に伝わったものが衣服の形こそ変わっていますが、技術は残っていると考えられます。このような構造から、着物は縫製を解いて、また元の反物の状態に戻すことでサイズや色を変えて、再び縫製し直すことができます。
 裾が破れるなどした場合には、羽織として仕立て直すこともできます。余った布は、座布団やのれんなどの幅が反物と同じなので、こういう別のものに作り替えることもできます。

 解けば価値が無くなる洋服と違い、解くことによってまた形を変える着物は、リサイクルできる服であるといえます。このようなところに、今も、糸や布を作り、大切にした人々の想いが引き継がれているように感じます。
 その反面、最近では着物と同じ構造の浴衣を洋服のように流行を追って1年で買い換える人が多いそうです。今の時代、糸や布が貴重品ではなくなってしまっているのかもしれません。

 (参考文献) 
 竹内晶子 『弥生の布を織る 機織りの考古学』 東京大学出版会 1989

糸を紡(つむ)いでいる様子(想像図)
糸を紡(つむ)いでいる様子(想像図)

 (紡錘車で撚りをかける方法)-右利きの人の場合-        
 まず、植物繊維を長く繋いだものを湿らしておきます。(湿っていないと撚りはかかりません)紡茎の先端に繊維を引っかけます。
 左手の指で繊維を挟んで持ちます。紡錘車の重みを利用して右手で紡錘を回転させると、紡茎の上端と左手の指で挟んだ間に撚りが掛かります。
 撚りが掛かった部分は、紡茎に巻き付けます。これを繰り返した後、紡茎に糸を巻き付けたまま、乾燥させます。(乾燥させると撚りが戻りません)

 

※2004年2月掲載