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変化する縄文時代観

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 河合 忍

 

 近年、発掘調査によって次々と明らかになる遺跡の内容は、これまでの縄文時代観や縄文人に対するイメージに変更を求めつつある。その中でも、青森県三内丸山遺跡の発掘調査によって明らかにされた内容は、衝撃を与えるものであり、大きな話題を提供した。

 この三内丸山遺跡からは、1600年という長い期間の人々の営みの積み重ねの結果、500軒をこえると予想されている住居跡が、巨木を用いた大型建物、大型竪穴住居とともに、30万ヘクタールをこえる広大な土地に発見され、長期にわたって計画的に営まれたことが指摘されている。自然科学の分析からは、クリ林の管理育成やヒョウタンなどの有用植物の栽培が行われていたことも指摘されている。

 これらのことは、縄文人の生活がいかに安定的であったかを物語っている。さらに、この三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイなど遠隔地との交流を示す遺物も出土しており、安定した生活基盤を背景に、この集落が交流の拠点としての役割を担っていたと考えられている。

 これらの発見は、これまでの縄文時代観や縄文人に対するイメージを変えるためには十分なものであったが、ここ10数年の間に、岡山県内で相次いで明らかにされた発掘調査や研究の成果は、さらに多くの情報を付け加えるものである。その重要な成果の1つは縄文時代にさかのぼるコメの存在であり、もう1つは列島規模の交流を具体的に物語る考古資料の存在である。両者を詳しく見ていきたい。

 前者については、今から10年前に報告書が刊行された岡山県南部の総社市南溝手遺跡の調査成果がまず挙げられる。ここでは縄文時代後期後葉(約3500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、大きな話題を呼んだ。ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。

 この籾痕土器のほかに、コメが作られていたことを示す証拠にはプラント・オパールがある。プラント・オパールは、コメやススキなどのイネ科植物の葉の細胞にできる植物珪酸体とよばれる、ガラス質細胞のことである。
 プラント・オパールは植物が枯れた後も半永久的に土壌に残るため、コメが存在していたかどうかを調べるためによく用いられる試料である。このプラント・オパールは800℃の熱にも耐えて残るため、土器の胎土に混入したものも調べることができる。
 土器の胎土中から検出されたイネのプラント・オパールについては、後世の混入の心配がなく、信頼性の高い資料である。最古のものとしては、美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の事例があり、このほかに縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。

 以上の証拠から、縄文時代にコメが存在したことは確実視されており、イネの栽培が行われていたことも多くの研究者によって指摘がなされている。ただし、イネの栽培が行われていたといっても、これまでの生業形態に新たに稲作が加わった程度であり、稲作が生業全体の基本に位置づけられる弥生時代とは区別して考える意見が大勢を占めている。

土器の表面に残る籾の痕跡(総社市南溝手遺跡)
土器の表面に残る籾の痕跡(総社市南溝手遺跡)

籾の痕跡の拡大写真
籾の痕跡の拡大写真

プラント・オパール(総社市南溝手遺跡)
プラント・オパール(総社市南溝手遺跡)

 後者については、近年調査が進められ、多様な地域との交流を物語る遺物が出土した岡山県北部の奥津町久田堀ノ内遺跡の調査成果が注目される(所報36号参照)。久田堀ノ内遺跡では、整理箱にして100箱をこえる大量の縄文晩期前葉(約3000年前)の土器・石器・玉等の遺物が発見された。
 この中には、東北から北陸・関東・近畿・九州地方との関わりを示す土器や北九州産の可能性のある玉のほか、新潟県姫川産のヒスイ、香川県産のサヌカイト、島根県隠岐島産の黒曜石などが含まれている。遺物の動きの背景には、人の動きが当然想定されるのであり、列島規模で活動した縄文人の姿が思い描かれる。

 この交流における移動手段についても、久田堀ノ内遺跡の事例は示唆に富んでいる。当遺跡では、続く弥生時代以降も日本海側の物資や情報が盛んに入ってくることが明らかになっていることから、交流ルートの1つは日本海-天神川-吉井川が、もう1つは後期の関東系の土器が久田堀ノ内遺跡のほか、吉井川を下った位置にある県南部の津島岡大遺跡からも出土していることやサヌカイトの分布状況などから、太平洋-瀬戸内海-吉井川がそれぞれ想定できる。

 このことから、縄文時代の長距離の交流は、舟を用いて海・河川を利用するものが主体的であったと考えられる。冒頭で紹介した三内丸山遺跡でも、同様に海を介した交流が想定されている。

列島各地との交流を示す考古資料(奥津町久田原遺跡・久田堀ノ内遺跡:縄文時代後晩期)(『よみがえる久田の歴史』より引用、一部改変)
列島各地との交流を示す考古資料(奥津町久田原遺跡・久田堀ノ内遺跡:縄文時代後晩期)
(『よみがえる久田の歴史』より引用、一部改変)

 縄文時代晩期の遠隔地との交流を示す資料は、晩期後葉から末(約2500年前)に属するものが県南部でも発見されている。岡山市津島岡大遺跡や同百間川沢田遺跡などでは、東日本系の土器が見つかっている一方で、総社市南溝手遺跡では突帯文土器に「孔列文」を施すという九州地方との交流を示す資料が見つかっており、広域の交流はこの時期にいたっても継続して行われていることをうかがい知ることができる。

 このような縄文時代後晩期の広域の交流を物語る遺物が出土した遺跡の事例は、岡山県周辺では、近年発掘調査が行われた鳥取県智頭町枕田遺跡などの事例があり、今後の調査の進展によって、さらに多くの事例が確認されると考えられる。

東日本系の土器(浮線文系土器)(岡山市百間川沢田遺跡)
東日本系の土器(浮線文系土器)(岡山市百間川沢田遺跡)

九州地方との交流を示す土器(外側)(総社市南溝手遺跡)
九州地方との交流を示す土器 (外側)(総社市南溝手遺跡)
内側
内側

 本格的な水田稲作が日本列島に伝わって弥生文化が成立し、列島内に瞬く間に広がった背景には、縄文人がコメの有用性を熟知していたことに加え、こうした広域の交流が行われ、情報網というべきものが形成されていたことも一因としてあると考えられる。

 安定的な生活、イネなど有用植物の栽培、列島規模の交流。これらが現在変化しつつある縄文時代観を理解するためのキーワードである。これからの発掘調査や研究の進捗次第で、さらに変化をとげていくであろう縄文時代観。10年後、20年後が楽しみである。

 

※2003年12月掲載