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石は物語る

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 小嶋 善邦

 

 「毛皮を纏(まと)った集団が歩いている・・・」と想像していただきたい・・・。

 『彼らは長距離を移動してきたのか、疲労困憊(ひろうこんぱい)しており、槍に寄りかかりながら歩いていた。槍の先は太陽の光を浴びて、しばしば煌(きら)めいていた。
 槍先の両側には、直線状に並べられた長さ4cm大の、カミソリの刃のように薄い石器が付いている。

 うつむきながら歩いていた彼らが、ふと、遠くに視線をのばすと、動物の群れが見える。何日も食事をしていなかった彼らにとって、久しぶりの獲物である。男たちはゆっくり動物に近づき、一斉に槍を投げつけた。

 それらは綺麗な放物線を描き、一頭の動物を仕留めた。男たちは動物を解体し、食事を始めた。一人の男が肉にかぶりついたとき、歯に固いものが当たった。口から出してよく見ると、槍先についていた石器のひとつであり、獲物を仕留めたときの衝撃で折れてしまっている。

 男はその石器を無造作に放り捨てた。食事を終えた彼らは、槍の補修を始めた。一人の男が、肩に提げていた袋から拳大の石とシカの角を取り出し、角をその石に当て、力強く押しつけ始めた。見る間に、槍先の両側に付いていたのと同じ石器が作られ、それを槍先の抜け落ちた部分に着けたのである。そして男たちは新たな獲物を仕留めるために立ち去り、その場には折れた石器だけが残された・・・。』

 

 これは、今から約1万3千年前、現在の岡山県上斎原村恩原(かみさいばらそんおんばら)でも繰り広げられていた情景である。ここで、残された石器と男が手にした拳大の石を見てみよう。

 残された石器は、カミソリの刃のように薄くて鋭利な石器(長さ4cm前後、幅1cm以下、厚さ1-2mm程度の縦長剥片)で、細石刃(さいせきじん)と呼ばれるものである。拳大の石は、現代の私たちが湧別技法(ゆうべつぎほう)と呼んでいる細石刃剥離技術(さいせきじんはくりぎじゅつ)から作られた細石核(さいせきかく)(細石刃を作るための母型)というものである。これらの石器の石材は、東北地方の日本海側が原産地である珪質頁岩(けいしつけつがん)にとても似ている。

サヌカイト製石器(野原遺跡群早風A地点出土)
サヌカイト製石器(野原遺跡群早風A地点出土)
遺跡からサヌカイト原産地(香川県坂出市)まで直線距離にして約100km離れている。どのような経路で遺跡にもたらされたのだろうか。

黒曜石製石器(野原遺跡群早風A地点出土)
黒曜石製石器(野原遺跡群早風A地点出土)
遺跡から黒曜石原産地(島根県隠岐島)まで直線距離にして約150km離れている。この石材もどのような経路で遺跡にもたらされたのだろうか。

 さて、手に持つことも難しくまた簡単に折れてしまうような細石刃は、どのように使用されていたのであろうか。外国の発掘調査から、細石刃は、おもに軸となる槍先に細い溝を彫り、その溝に直線状に並べて嵌(は)めこんで用いられていることが判明している。男が持っていた槍が、まさしくそれである。

 また、湧別技法とは木の葉形の両面調整素材(りょうめんちょうせいそざい)(1)を用意し、その素材の長い一側縁に沿って数枚の削片(さくへん)(断面三角形またはスキー状の削片)(2)をそぎ落とし、平坦な打面をもつ細石核をつくり、そして打面の一端から細石刃を剥離(3)する技術である。この技術は、おもに中国・シベリアから東北日本で使用されている。

1 両面調整素材を用意する。
2 数枚の削片をそぎ落とす。
3 細石刃を剥離する。
4 槍先へ細石刃を装着する。
湧別技法による細石刃製作の模式図(稲田孝司『遊動する旧石器人』岩波書店2001 より引用・一部加筆)

 では、湧別技法が用いられている地域から遠く離れた恩原でその技法が使用されていること、さらに、珪質頁岩に似た石材が出土しているということは何を示すのか。

 

 ・・・「ヒトの移動」である。・・・

 石器を詳しく観察すると様々なことが見えてくるが、分からないこともまた多い。その最たるものが、「なぜ東北日本の集団がはるばる恩原に来たのか。」ということである。彼らはどのような目的で来たのだろうか。未知なる土地へのあこがれか、それとも、今まで生活していた東北日本の環境が変化して、否応なく住み慣れた土地を離れて来たのか。現在、私たちにはそれを知る術はない。

 しかし、どのような理由にしろ、東北日本で生活していた集団が恩原に来た事実は、恩原に残された石器が物語っている。

 

※2003年11月掲載