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たたら

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 光永 真一

 

大成山たたら遺跡群B区 高殿たたら床釣り断面
大成山たたら遺跡群B区 高殿たたら床釣り断面

 勢い余って、から足を踏む様子を「たたらを踏む」と表現しますが、この言葉の元々の意味は、「鞴(ふいご)を踏んで風を送ること」で、「たたら」とは足踏みの鞴を意味しています。この鞴から送られる風が無くては成り立たないのが製鉄炉です。
 このため、「たたら」は製鉄場を指す言葉としても使われ、江戸時代に中国山地を中心にして盛んに行われた日本古来の製鉄法は、「たたら吹製鉄法」と呼ばれます。

 この製鉄法は、(1)砂鉄を原料とし、木炭を燃料とする、(2)天秤鞴(てんびんふいご)という二人がかりで操作する大きな鞴で送風する、(3)炉の地下に、床釣(とこつ)りと呼ばれる巨大な保温・防湿構造を施す、という三つの要素で定義され、十間(18m)四方の高殿(たかどの)という大きな建物の中で行われることから、その製鉄場を高殿たたらと呼びます。

 製鉄遺跡にのこされるのは、(3)の床釣り構造です。三室川ダムの建設に伴って、平成8年から二年間にわたって調査された、阿哲郡神郷町の大成山(おおなるやま)たたら遺跡群では、幕末から明治時代に操業された高殿たたらの巨大な床釣り構造が明らかになりました。

 まず、30m四方に造成された平坦面の中央に、床釣りのために、長さ9.2m、幅6.7m、深さ2.7mの大きな穴が掘られます。穴の底には、一辺50cm前後の川原石が立て並べられ、その上に同じくらいの大きさでやや扁平な川原石が敷き並べられます。
 下段の石を坊主石(ぼうずいし)、上段の石を笠石(かさいし)と呼びます。笠石の上に、10cm大の角礫と鉄滓(てっさい)をそれぞれ20cm程の厚さに敷き詰め、さらに黒ボクを20cmと穴を掘った際の地山土を70cm積み上げて、基礎工事が終わります。この時点で、深さ2.7mの穴を1.8m埋めた状態になります。
 この面に、本床(ほんどこ)・小舟(こぶね)と呼ばれる、長さ6m弱の大きな乾燥施設が築かれます。中央の本床は、側壁の高さが1.5m、中央部の幅が1mを超える和船のような形です。両脇の小舟は緩い弧を描き、高さ50cmの側壁の上に粘土で甲が架けられて、トンネルになっています。

本床・小舟
本床・小舟

 初めは本床にも甲が架けられ、それぞれに詰め込まれた薪を燃やして、周辺を乾燥させます。その熱影響は強く、床釣りの下層の土も黄色から赤色に変色しています。
 この後、小舟の上は埋め立てられ、本床の中に炭が詰められて、床釣りが完成します。そして、本床の上に炉が築かれ、小舟の位置には天秤鞴が据え付けられて、炉に火が入ります。

 この高殿たたらでは、建物の中の構造も良く残っていて、砂鉄や炭の置き場、炉を築く粘土の置き場、あるいは作業員の休憩場所まで分かりました。高殿の周りには、運び込まれた砂鉄を最終的に精選する砂鉄洗い場や、できた鉄を包丁鉄(ほうちょうてつ)と呼ばれる製品に仕上げる大鍛冶場(おおかじば)も配置され、当時の製鉄工場の様子を目の当たりにすることができました。

手前:砂鉄置き場 後方:木炭置き場
手前:砂鉄置き場 後方:木炭置き場

 大成山たたら遺跡群では、この高殿たたらを含めて、中世から近世に操業した七つの製鉄場の跡が見つかり、高く炎を上げる炉の傍らで、汗だくになりながら鞴を踏み続けた人々の姿を蘇らせてくれました。

江戸初期の地下構造
江戸初期の地下構造

 

※グラフおかやま1999年3月号より転載