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岡山城と洪水

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 氏平 昭則

 

岡山城二の丸から出土の蒔絵鉢(中国電力内山下変電所建設事業に伴う埋蔵文化財調査委員会提供)
岡山城二の丸から出土の蒔絵鉢(中国電力内山下変電所建設事業に伴う埋蔵文化財調査委員会提供)

 今年、岡山市街中心部に岡山で一番高いNTTクレド岡山ビル(仮称)が完成する。高さは100mに至り、早くも岡山のランドマークとして注目を集めている。しかし、つい最近まで岡山市街で最も高い建造物は、岡山城であった。岡山城は長らく市街のどの建物よりも高くそびえ、象徴として君臨していたのである。

 さてその岡山城は、ご存じの通り戦国大名宇喜多秀家によって築城された。秀家の父、直家の時代には石山(いしやま)にあった城の中心部は、秀家の時代にその東の岡山に移動している。東に岡山県三大河川の一つ旭川が流れるこの丘陵は天然の要害であった。さらに西側には堀を設け、城下町が整備されていく。
 このようにして現在の岡山市街地中心部に礎が築かれていった。最近、岡山城では史跡整備に伴う発掘調査が岡山市教育委員会によって実施され、秀家から幕末に至る岡山城改築の様子が徐々に明らかになっている。

 秀家以降岡山城主の問題の一つは、旭川の治水であった。旭川は縄文時代以来、一方で人々にすみかを与え田畑を潤したが、また一方では洪水を起こし人の営みを一瞬にして押し流してきたのである。
 池田綱政(1638-1714)が百間川を開削したのは、沖新田の排水もさることながら岡山城下から何とか洪水を避けたかったというところが大きい。洪水の中でも承応3年(1654)のものはすさまじいものであった。
 1994年に実施された中国電力内山下変電所建設に伴う発掘調査を例に取ってみると、このときの洪水砂の最も厚い部分はなんと2mもあるのだ。

岡山城二の丸の調査(中国電力内山下変電所建設に伴う調査)
岡山城二の丸の調査(中国電力内山下変電所建設に伴う調査)

調査区断面に現れた承応3年の洪水砂
調査区断面に現れた承応3年の洪水砂

 そしてこの洪水砂の中から、思いも寄らぬ遺物が出土して関係者を驚かせた。一つは高台寺(こうだいじ)様式の蒔絵(まきえ)が施された木製の鉢であり、もう一つは金箔を施した土器や軒丸瓦である。鉢はその形から、身分の高い女性が髪を洗うための鉢であるとされた。

出土した金箔おし瓦
出土した金箔おし瓦

 さらにその外面を彩る蒔絵にも注目が集まった。高台寺は豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)ねねの建立した禅寺であり、霊屋内陣(おたまやないじん)には黒漆の上に蒔絵が施されている。出土品の精緻な図柄は重要文化財の高台寺蒔絵に匹敵するといっても過言ではないだろう。
 黒漆に金色の蒔絵は、同時に出土した土器・軒丸瓦の金箔と合わせ、きらびやかな桃山文化に思いを馳せるものがある。さらに、一代の英雄秀吉とその養子・秀家の強い関係がこれらの遺物を通じて感じられるのである。

 承応3年の洪水以降も城下町が営まれているが、建物などの痕跡は総じて残りがよくない。洪水の被害が少なくなったため、幕末までほぼ同一面で建物が建てられたためであろうか。
 百間川開通の後昭和まで水害が続くが、旭川ダムが完成し、堤防が築かれてからは、岡山市街が旭川のはんらんによる洪水の被害を受けた例はない。しかし昨年の台風では岡山市後楽園などの一部が浸水した。先人の努力や過去の事象を忘れてはならない、という自然からの警告なのかもしれない。

 それにしても、表町を歩くひとびとの何人が、足下にそんな歴史が隠されていることを知っているのだろうか。

 

※グラフおかやま1999年2月号より転載