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中世の城と村人

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 佐藤 寛介

 

発掘調査により全貌が明らかにされた城峪城(左)と比丘尼ヶ城(右)
発掘調査により全貌が明らかにされた城峪城(左)と比丘尼ヶ城(右)

 『城』というと武士だけのもの、というイメージがあります。しかし近年、文献史学や全国各地で行われている発掘調査の成果から、戦乱の続いた中世(鎌倉から戦国時代)には、村人たちも戦乱から自分たちの生命や財産を守るために、村の城ともいうべき自衛の城を築いていたことが明らかになりつつあります。
 今回は苫田ダム建設に伴い発掘調査が行われた山城の調査成果から、村の城について考えてみたいと思います。

 舞台は苫田ダム建設が急ピッチで進められている苫田郡奥津町久田(くた)地区。この吉井川沿いに形成された小盆地を取り囲む丘陵上には城峪(しろさこ)城、比丘尼(びくに)ヶ城、久田上原(かみのはら)城、河内(こうち)城という4つの山城が築かれています。

 発掘調査の結果、これらの山城はいずれも全長100m程度と中世の山城としては小規模で、防衛拠点となる郭(かく)(曲輪(くるわ))も小さく、しっかりとした建物が建てられていたような形跡がないことや、敵から攻め込まれやすい尾根筋に掘切(ほりきり)を二重に巡らし、郭の周囲や斜面には犬走(いぬばし)りという通路状の防御施設を設けるなど、城の縄張り(構造)がよく似ていることが分かりました。

河内城の犬走りと投石用のつぶて石
河内城の犬走りと投石用のつぶて石

河内城の防御の要となる巨大な堀切
河内城の防御の要となる巨大な堀切

 また、出土遺物には備前焼の甕や擂鉢、瓦質の羽釜(土鍋)、土師質の小皿などの日常雑器や、貴重な輸入陶磁器である青磁や白磁の椀がありますが、全体的に出土量はわずかで、長期にわたり城内で生活していた様子は認められないことも共通しています。

 こうした城の縄張りの類似性と出土遺物の年代から、久田地区の山城群は南北朝から室町時代初期(約650年前)に同一の勢力によって同時代に築かれたものと考えられます。
 さらに遺物の出土量や内容からは、非常の際に貴重品や必要最低限の生活道具をもって立て籠もる、臨時の避難所的な性格が窺えるのです。

 では、これらの山城群は誰によってどのような理由で築かれたのでしょうか。それを記した古文書は残されていませんが、当時の社会情勢が大きく関わっていたことは間違いありません。

 南北朝時代は日本全域が内乱状態になった時代で、各地で北朝方と南朝方の争いや悪党と呼ばれる武装集団の乱暴、狼藉(ろうぜき)が起こりました。美作の地も山陰の山名氏と山陽の赤松氏という二大勢力の争いの場となり、戦乱が絶えない状況でした。
 久田地区の山城群が見下ろす平野部には当時、久田荘(くたのしょう)という荘園があったことが記録にあり、現在も進められている発掘調査によって集落の様相が明らかにされつつあります。

発掘調査後の河内城全景
発掘調査後の河内城全景

 久田荘は山陽と山陰を結ぶ交通の要衝に位置することから、これらの集落を営んだ人々も戦乱に巻き込まれることがあったと思われます。
 こうした歴史的な背景や発掘調査の成果から、城峪城をはじめとする久田地区の山城群は久田荘に住む村人たちが自衛のために築いた、久田荘の城だった可能性が考えられるのです。

 岡山県内には900もの城があるといわれています。城は戦乱の時代を象徴する戦跡ですが、見方を変えれば戦乱の世を力を合わせて逞(たくま)しく生き抜いた人々がいたことを物語る記念碑といえるのかもしれません。

 

※グラフおかやま1999年1月号より転載