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雄大な鬼ノ城

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 葛原 克人

 

西城門跡
西城門跡(総社市教育委員会提供)

 総社市奥坂にある鬼ノ城(きのじょう)は、吉備高原の最南端を占める標高約400mの険阻な鬼城山(きじょうざん)の山頂付近につくられた、まことに雄大な古代山城である。これまで謎のベールにつつまれ、温羅(うら)伝承の舞台にすぎなかったこの山城は、近年の発掘調査によって、しだいにその実態が解明されつつある。

 まず、鬼城山の9合目あたりをめぐる城壁は、直線的なつくりを一単位としてこれを次々と連結させているから、内に外に角度をもって、つまりは「折れ」を伴いながら周回するのが特徴である。
 城郭線は、2.8kmを測ってむすばれ、城内面積はじつに30万平方メートルに及ぶ。眼下にある県立大学の敷地をすっぽり飲み込む広さなのである。
 平均的にいって城壁の規模は、幅が7m、高さ6-7m。敵兵の進攻を容易に許さない「万里の長城」を彷彿とさせるものがある。わけても防御正面のつくりは厳重堅固で、外表面すべてが高石垣の所と土築の箇所とに分かれる。

 土築の部位にあってもそれは、単に盛土しただけではない。あらかじめ基礎の部分には方形の割石を直線状に据え置き、その上に数cmの厚みで一層ずつ、ゆるぎなく叩きしめた土壁がのる。その断面は、白色・黄色・褐色・黒色と水平方向に鮮やかな色調変化を示すから、割ったバームクーヘンの中身に似たこまやかな美しさが目に映る、丁寧なつくりなのである。
 それが、ほぼ垂直に、人の背丈の3倍をゆうに超える6mもの高さに積み上げられているもので、見上げる人びとは驚きを覚えずにはいられない。したがって鬼ノ城は、石築城というよりも、土石混築城と表現した方がより適切であろう。

 このことと合わせ、さらに注目されるのは、城壁の基部において外も内も、幅約1.5mの石畳が武者走(むしゃばしり)状に取り付くことをつきとめた点である。この発見はわが国の古代山城の中ではむろん初めてのことであって、この工法を採用したのはおそらく、城壁の下 部が雨水や霜柱に影響されて痛まないよう崩壊防止を図ったものと思われる。
 一方の高石垣は、防御正面に4-5箇所みとめられ、これらは通常の城壁幅から外へコの字状に突き出した、敵兵の動静を見極める「雉(かき)」のような施設になるかもしれない。

 城郭線に見られる、折れの構成と雉城の備えとともにもう一つ、角楼(かくろう)の発見は特筆に値する。
 わが国内で初めて見つかったこの角楼は、城郭全体からすれば南西隅に位置し、城壁線から外方へ4m張り出して、前縁部13mを一辺とする平場が形づくられる。外側の、下半3mは石垣、その上3mに版築の土塁が積まれ、しかも石垣の中に4m間隔で一辺50cmの太い角柱が4本と、前縁石垣の左右両端においてもそれぞれ1本ずつ同様の角柱が立つ。

角楼跡
角楼跡

 覆屋(おおいや)があったかどうか不明にしろ、すぐれた建造物が存在したに違いない。ちょうどこの場所は、高梁川河口の酒津と水島灘が遠望可能は好所にあたる巨大な望楼施設の跡である。
 これまでに判明していた5つの水門跡や、城内における礎石総柱(そせきそうばしら)建物の倉庫群のほか、城門跡の適確な位置と構造が判明したこともまた大きな成果として挙げられる。

第2水門跡
第2水門跡

 城門は、東門・南門・西門・北門と四門が知られ、いずれにも掘立柱に添える型式のすばらしい門礎が据え置かれていたのである。門礎の両脇には半円弧状またはコの字状の刳り込みが見え、円柱・角柱の違いはあるものの、柱の太さおよそ60cmのすこぶる大きな材が使われたことをうかがわせる。

東城門跡
東城門跡

 謎の解明にむかって、発掘調査はさらに続く予定である。

 

※グラフおかやま1998年11月号より転載