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終末期古墳を考える

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 高田 恭一郎

 

二子14号墳(倉敷市)
二子14号墳(倉敷市)

二子14号墳の横穴式石室
二子14号墳の横穴式石室

 高速道路を疾走する車両の轟音を耳にしながら、コンクリート舗装の道を登っていく。時間にして7-8分、やがて目の前が開け、移築復元された終末期古墳の二子(ふたご)14号墳がその姿を現わした。
 3世紀後半に出現した前方後円墳は、畿内と各地の首長との政治的関係を表徴するものであった。その前方後円墳の築造が停止され、すべての古墳が方墳や円墳となるのが、概ね6世紀後葉から末葉である。これ以後、ほぼ7世紀代の古墳を終末期古墳と呼んでいる。

 今回は、山陽自動車道建設に伴い発掘調査された7世紀中葉の古墳、二子14号墳の成果を中心に終末期古墳を構成する要素について考えてみよう。

 二子14号墳は岡山平野の西端、仕手倉山から東に延びる丘陵南斜面の標高80mの高所に単独で築かれている。古墳からの眺望は良好で、同時期の多くの古墳がもっと見通しの効かない立地を選ぶのに比べてやや異なっている。
 墳丘は方形の二段築成で、高さは2m。各段の外表に石垣を巡らし、下段の規模は東西13m、南北12.7mを測る。このように、各段に石垣を巡らす方墳は、北房町定北(さだきた)古墳、同大谷(おおや)1号墳がある。
 いずれも7世紀中葉以降の古墳で、特に大谷1号墳は、方形3段の墳丘の前面にさらに二段の石垣を設け、正面観は五段となる。

 内部主体は、南に開口する横穴式石室で、全長7.4mを測る。大形の石材を二段に用いた玄室は、長さ4.7m、幅・高さとも1.4mで、床面には平石を敷いている。羨道は小形の石を積み上げるもので、長さ2.7m、幅1.6mを測る。
 このように、玄室幅よりも羨道幅の広がるものは、総社市長砂(ながさこ)2号墳の横口式石槨に取り付く羨道の例がある。
 副葬品は、須恵器の蓋と高杯が出土したのみである。全般に終末期古墳の副葬品は、簡素化の傾向が強く、渡来系文物など少量の優品・愛用品を副葬するに留まる例が多い。

二子14号墳出土遺物
二子14号墳出土遺物

 それでは、二子14号墳の被葬者はどういう人物か。まず古墳の規模や構造から官人化した地方の在地首長が候補に上がる。また、周囲の近接する時期の二子御堂奥窯跡や日畑廃寺(ひはたはいじ)の存在から、これらの造営に無関係ではないだろう。
 このようにヤマト政権に服属し、その影響下にある終末期古墳を造りながらも、一方では最新の寺院造営を図る人物像が見えるのである。

 7世紀はヤマト政権が強大化し、中国や朝鮮の国家を規範とした中央集権的な律令国家を目指した時期である。こうした中築かれた終末期古墳は、前代の前方後円墳と異なり、それ自体が政治的モニュメント足り得ず、新しく始まった寺院造営に取って代わられることになる。
 しかし、終末期古墳の変化とその終焉への過程を研究することは、律令国家形成の過程を知るための重要な考古学的アプローチなのである。

 整備された二子14号墳の墳丘上に立ち、登って来た方角を眺めてみる。指呼の間に山陽自動車道があり、かつて本墳が所在した地点はオープンカットとなっている。その先には上東遺跡や川入遺跡が望め、さらに古墳築造当時は海であった平野が広がっている。
 これから秋冬。こうした眺望を楽しみながら、古墳の被葬者や、その時代に想いを馳せるのにはよい季節だろう。

移築復元後の二子14号墳
移築復元後の二子14号墳

 

※グラフおかやま1997年12月号より転載