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1400年前の墓地事情

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 弘田 和司

 

清音村峠古墳群 7世紀頃
清音村峠古墳群 7世紀頃

 古墳時代の終わりごろ(西暦6-7世紀)には、横穴式石室と呼ばれる埋葬施設をもつ古墳が盛んに造られるようになった。
 横穴式石室とは、三方の壁と天井を大きな石で積み、一方に入り口を設けた遺体を安置するための石の部屋のことで、古墳時代前期後半(4世紀の終わり)ころに朝鮮半島から北部九州地方へと伝来してきた新たな墓制である。

久世町木谷11号墳 天井は壊されていたが、多くの遺物が出土した
久世町木谷11号墳 天井は壊されていたが、多くの遺物が出土した

 これがやがて近畿地方の大王や豪族たちの墓に取り入れられ、6世紀後半には急速に全国へ普及していった。
 岡山県でも数千基が存在し、総社市の吉備路風土記の丘にあるこうもり塚古墳の横穴式石室(全長19.4m、幅3.6m)が有名である。ただこれは県下最大級の石室であり、大多数は人一人が入れるくらいの大きさである。
 また横穴式石室は、特定個人の墓ではなく、数人以上の埋葬が行われるのが普通である。山陽町岩田14号墳では棺の痕跡が7か所で確認された。
 岡山市前池内3号墳では一つの木棺内に3体分の大腿骨がみつかっているが、先に埋葬されていた人骨を木棺内に改葬したようである。

岡山市前池内3号墳 木棺はくさっていたが人骨はよく残っていた
岡山市前池内3号墳 木棺はくさっていたが人骨はよく残っていた

 ふだんは河原石などで閉ざされている入り口をあけ埋葬を行なう行為は、まさに当時の日本人の葬送儀礼や死生観を大きく変えたに違いない。イザナギとイザナミの黄泉の国の神話は、こうした横穴式石室の世界を表現したといわれている。
 清音村にある三因千塚古墳群では、丘陵の斜面や尾根上に全部で約200基の古墳が知られており、その中の1グループである峠古墳群では、横穴式石室をもつ四基の小円墳が、発掘調査後に復元・整備されている。

 このように、ある一定範囲に小規模の古墳が、裾を接して密集することを特別に「群集墳」と呼んでいる。可耕地をさけた場所の選定は何らかの取り決めがあったかのようである。
 勝央町畑ノ平古墳群では、10基の横穴式石室墳の調査が行われた。いずれも墳丘は目立たず、石室も長さが3-7m、幅が1m程と小規模で、土器以外にめぼしい副葬品もみられなかった。
 ただ、これらの石室は2つの谷の斜面部に入り口を向け、墓に至る2本の道によって有機的に結びついていたと推定でき、土器の年代から、3世代にわたる2つの家族(1つの氏族)の墓地と考えられた。

 群集墳は、生産力の向上とともに台頭してきた血縁関係にある有力家族の墓地と考えられている。さらに近年では、人骨を手がかりとして1古墳に埋葬された人々の関係を推定する研究も行われている。それによると、最初に古墳を築造した家の長とその妻や兄弟・子供が順次埋葬され、次世代の家長になると再び隣接した場所に古墳を造っていくらしい。

 では群集墳がどのように成立し、また爆発的に増大していったのだろう。

 岡山県では最も新しい前方後円墳(総社市江崎古墳)が造られて以降に増加していることからそれまで力を持っていた豪族層の衰退と大いに関わっているようだ。どうやら、古墳を造ることができる人々の増加と横穴式石室の普及は密接な関係があるようである。
 しかし、このような古墳造りも7世紀の後半ごろには急速に衰退し、切石などを用いた特定身分の個人墓のみが築かれるようになる。群集墳の衰退は、当時の東アジア社会における緊張のなかで、国家制度の急速な整備を必要とした畿内政権による規制と考えられないだろうか。

 石を切り、運び、そして積み上げる。群集墳を造った当時の岡山の人々のエネルギーは鬼ノ城造営へと向けさせられたのである。

 

※グラフおかやま1998年9月号より転載