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渡り来た鉄と器

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 伊藤 晃

 

窪木薬師遺跡 鉄てい出土状況
窪木薬師遺跡 鉄てい出土状況

 「真金(まかね)吹く吉備の中山」と枕詞に詠われているように、吉備では古代以降鉄生産が盛んに行われていましたが、鉄生産が始められる以前はどのようにして鉄を手にいれていたのでしょうか。

 稲作の伝来と共に中国大陸・朝鮮半島から、銅・鉄などの金属器の生産技術も一緒に伝わってきたといわれています。しかし弥生時代前・中期には依然として石器が多く使用されており、後期にいたってようやく鉄鏃(てつぞく)・鍬先などに使用されているのが散見できるくらいです。高度な技術を伴う鉄生産はまだ行われていません。

 日本で生産されるのは古墳時代後半までまたなければなりません。それまでの間は、製品で輸入された物もあったでしょうが、多くは鉄ていとして持ち込まれていました。
 鉄ていとは、鉄を運びやすいように板状に加工した物で、大型品は長さ30-40cm、幅5-8cm、重さ200-400g、小形品は長さ16cm、幅2cm、重さ20g前後あります。
 これを鍛冶加工し武具・武器を、さらに農具、開墾具を作ったのです。これらは補修・修繕することによって何度も使用することができ、大いに生産の向上につながったことと思われます。

 この鉄ていの県内での 出土は2例知られています。阿哲郡神郷町新市谷遺跡と、総社市窪木薬師遺跡の鍛冶を行っていたと考えられる住居跡内から、鍛冶滓(かじさい)・炭・朝鮮半島系の軟質土器などと共に出土しています。

窪木薬師遺跡出土 鉄てい
窪木薬師遺跡出土 鉄てい

 吉備の有力者によって持ち込まれた鉄ていをこの地において鍛冶加工していた一端を垣間見ることのできる貴重な出土例です。そして県内において鉄生産が盛んに行われ始めるのは総社市千引(せんびき)かなくろ谷遺跡、久米町大蔵池南(おおぞういけみなみ)遺跡などのように6世紀後半に入ってからのことです。

 当時の輸入品の中にもう一つ硬質の焼物があり、これは陶質土器と呼ばれています。日本で生産された物が須恵器です。
 土師器と須恵器の違いは、焼かれる窯の有無、すなわち土師器を焼く場合は、器の周辺で薪を数時間燃やしつづけることによって焼き上げることが出来るのですが、須恵器の場合は幅1m前後、長さ10m程の穴を掘り、天井をもった窯で焼かれています。
 当然、焼成温度にも差がでてきます。土師器が800度で焼かれるのに対し、須恵器窯は1100度前後を出すことが出来るのです。このような構造的な窯が導入されるのは、畿内を中心に5世紀中頃になってからのことです。

 県内で見つかっている最初期の窯は総社市奥ガ谷窯跡です。しかし1基のみでこれに続く窯跡は見つかっていません。岡山市榊山(さかきやま)古墳から出土した壷・高杯、牛窓町黒島2号墳出土の高杯、山陽町斎富遺跡出土の杯蓋、角杯(かくはい)・器台、倉敷市酒津遺跡出土の器台など数多くの遺跡で陶質土器が見られます。

斎富遺跡出土陶質土器(杯蓋)
斎富遺跡出土陶質土器(杯蓋)

斎富遺跡出土陶質土器(器台他)
斎富遺跡出土陶質土器(器台他)

 特に斎富遺跡出土の杯蓋は新羅(しらぎ)系の土器で朝鮮半島南部を流れる洛東河中流域で見られる物と同じであり、同地域で生産された物が持ち込まれた物と考えられます。

 このように吉備に新しく須恵器窯が導入されるまで、伽耶(かや)・百済(くだら)・新羅など朝鮮半島南部の各地から、これらの硬質の焼き物を手に入れていたのです。鉄と陶質土器、両者とも現在に続いている産業の一つですが、古墳時代中頃の5世紀代にその生産の始まりを見ることが出来ます。

 

※グラフおかやま1998年8月号より転載