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銅鐸の発見

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 岡本 寛久

 

 平成元年8月25日の午後3時頃、岡山市高塚(たかつか)にある岡山自動車道の予定地で、発掘調査中に銅鐸(どうたく)が発見されました。

岡山市高塚遺跡出土 流水文銅鐸
岡山市高塚遺跡出土 流水文銅鐸

 銅鐸は数日前に新しく拡げた調査区の南端に眠っていました。調査区の位置がもう少し北に寄っていれば永久に発見されなかったかもしれず、幸運でした。 
 すぐ近くで調査をしていた職員も集まり、銅鐸だということがわかって大騒ぎになりました。これまで500個を越える銅鐸が見つかってはいますが、そのほとんどは丘陵地から偶然に出土したもので、発掘調査中に出土したのはわずかに六例しかなかったからです。 しかも、今回出土した高塚遺跡は、平野にある集落跡で、周辺から多くの関連する資料の得られることが期待されました。

半分姿を現した銅鐸
半分姿を現した銅鐸

慎重な調査が続く(まわりの土をていねいに除去しています)
慎重な調査が続く(まわりの土をていねいに除去しています)

 銅鐸は筒形の器体にひもをかける吊り手をつけたベルのような楽器で、時代がたつとともに大きさを増し、また、吊り手も幅を広げ、いろいろな文様で飾られるようになっていきました。
 この吊り手の形で、古いものから新しいものまで四つの段階に分けられていますが、高塚銅鐸はもっとも新しい段階のものです。銅鐸は描かれた絵などから、一般には農耕の祭りに使用されたと考えられています。

 吊り手から器体の側線にかけて板状の飾りが付けられ、これを鰭(ひれ)と呼びますが、高塚銅鐸は、長径73cm、短径43cm、深さ40cmの穴の中に、鰭が垂直に立つように横に寝かせて埋められていました。
 銅鐸の高さが58cmですから、ぎりぎりの大きさで、まさに、銅鐸を埋納するために掘られた穴ということができます。各地で確認された埋納方法の多くがこの形をとっていますので、銅鐸の分布圏全域にわたって共通の観念が存在していたものとみてよいでしょう。

 高塚銅鐸の外面には流水文(りゅうすいもん)と呼ばれる文様が描かれていました。銅鐸の流水文には二つの種類があり、高塚銅鐸の流水文は線をたどっていくと途切れてしまうもので、「迷路派」などと呼ばれ、近畿地方の中央部を避けるような形で、近畿地方の北部から山陰・山陽・四国と分布しています。
 岡山県では真備町妹(せ)から同じ型式の流水文銅鐸が出土しています。銅鐸の鋳造技術をもった集団が各地を移動しながら銅鐸を造っていったという説があり、興味がもたれます。

 銅鐸を埋納した穴から出土した土器片の年代は弥生時代後期の初めで、西暦一世紀頃と考えられます。先月号で紹介した「貨泉(かせん)」の出土した穴が60m西にあって、同じ年代の土器が出土 していますので、これも銅鐸の年代を考える参考となります。

 高塚遺跡では、その後さらに重要な成果がありました。別の銅鐸の小片が一つ、弥生時代後期末の住居跡が埋まった後に掘られた柱穴から出土したのです。一つの遺跡から出土した二つの銅鐸の異なった取り扱いについて、銅鐸の祭りの廃止によって銅鐸は破壊されたという説もあることから、気にかかるところです。

 高塚遺跡での銅鐸の発見は、これまではとんど例のなかった集落中心部での出土ということで、これからの銅鐸の研究において貴重な事実を提供したといえます。

 

※グラフおかやま1998年2月号より転載