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ゆきかうブロンズ製品

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 正岡 睦夫

 

 弥生時代を特徴づけるものに金属器の出現がある。利器や武器としての用途は、鉄器が荷なうこととなり、青銅器は、主に祭器として利用されている。
 昨年、島根県では、一度に三十九個の銅鐸が発見されて私達を驚かせた。特別展示には三十万人の見学者があり、関心の高さを示している。

 岡山県内で出土している青銅器は、銅鐸、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)、銅鏡、銅鏃(どうぞく)、銅釧(どうくしろ)などがあり、弥生時代の青銅器のほとんどが見られる。
 青銅器は、弥生時代になって渡来した人やその技術を学んだ人によって新たに造り出されたものである。中国や朝鮮半島からもたらされたものもあるが、北九州や近畿地方などで生産されるようになり、各地へ流入している。
 海外から持ち込まれたものを舶載品と呼んでいるが、県内には貨幣と銅鏡がある。山陽自動車道建設に伴って発掘調査が行われた岡山市高塚遺跡では、中国で作られた貨泉(かせん)が二十五枚発見された。

岡山市高塚遺跡出土 貨泉
岡山市高塚遺跡出土 貨泉

 それまでの全国のものを全部合わせても、弥生時代の出土例は十一遺跡十六枚を数えるにすぎなかった。貨泉が出土したのは弥生時代後期の貯蔵穴である。この穴の埋土の焼土や炭・灰に混じっていた。火災か何か不慮の事態に遭い、穴の中へ埋没したものと思われる。

 貨泉は中国の「新」(紀元八-二十三年)の貨幣であり、前漢を倒した王莽(おうもう)によって作られたものである。『前漢書』の食貨志によると、天鳳元年(紀元十四年)に貨布と共に初めて発行されたものである。「新」が倒され、後漢になっても、建武十六年(紀元四十年)に五銖銭が復活するまでつくられていたようである。私鋳銭も多かったという。
 高塚遺跡から出土した貨泉も字の形が異なるものがあり、重さも1gから3gまでのばらつきがあって、初鋳のものとは考えられず、やや後に鋳造されたものと推定されるし、私鋳銭を含んでいると思われる。いずれにしても、紀元一世紀の前半に鋳造された中国の貨幣がはるかに離れた岡山の地に移入され、埋没していたことは驚きであった。

 高塚遺跡の南東2.7キロメートルに位置する足守川加茂B遺跡から朝鮮半島で造られたとされる蕨手状渦文鏡(わらびてもんかもんきょう)1面が発見された。弥生時代後期後半の竪穴住居の埋土中から出土したもので、直径4.5センチメートルの小さな銅鏡である。県内では他にも弥生時代に中国からもたらされた銅鏡が三面ある。

岡山市足守川加茂B遺跡出土
岡山市足守川加茂B遺跡出土 蕨手状渦文鏡

 以上のように、弥生時代には、中国・朝鮮半島からの文物が日本列島内に搬入されるようになり、その一部は岡山県下へ及んでいて、広域な交流が始まっていることがわかる。
 当初は完成した形で輸入されていた青銅器が、弥生時代中期から国内で生産されるようになる。県内出土の国産青銅器では銅鐸二十五個、銅剣十一本、銅矛一本、銅戈三本、銅釧二個、銅鏃十三本、棒状銅製品一本などがある。
 銅剣の内後出の平形のものは児島瑜加山から出土しているが、主な分布地は四国であり、搬入されたものと推定される。銅戈は笠岡市生江浜の干拓地と倉敷市広江浜遺跡から発見されていて、いずれも海に関係しているらしい。
 銅矛は岡山県から出土したとされているものでは、詳細はわからない。銅釧二個は、いずれも岡山市加茂政所遺跡から出土したものである。一つは円環型(えんかんがた)銅釧と呼ばれるもので、径6.2センチメートルを測り、弥生時代後期前半の竪穴住居の床面で発見された。この種の銅釧は瀬戸内地方には少なく、大阪や長崎などから出土していて、これらの地方からもたらされたものであろう。

岡山市政所遺跡出土 
岡山市政所遺跡出土 円環型銅釧(弥生時代後期)

 もう一つのものは、有鉤型(ゆうこうがた)銅釧と呼ばれるもので、南海産大型巻貝であるゴボウラ貝から作られたものをまねている。九州から神奈川県まで分布しているが、瀬戸内地方では東広島市の竪穴住居から一例発見されているだけである。

岡山市政所遺跡出土 有鉤型銅釧(弥生時代後期)
岡山市政所遺跡出土 有鉤型銅釧(弥生時代後期)

 

※グラフおかやま1998年1月号より転載