ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

お米を食す法

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 柳瀬 昭彦

 

 私たちが日頃口にしているお米。食べるためには、炊く・蒸す・炒めるなどの調理を必要とすることは言うまでもない。そして、それが食べられる状態になるには、温度管理(火加減とその時間配分)も欠かせない。
 それでは、日本に稲作が定着して以降、主食の座を保ってきたと思われるお米が、初めの頃どういう方法で調理されていたかとなると、意外に知られていない。というより、ほとんど分かっていない。
 それは、お米自体が調理された状態で今日まで残ることはなく、炭化米あるいは土器の表面の稲籾痕跡(当シリーズ 5 稲作ことはじめ 参照)としてわずかに残るくらいで、情報が限定されるからである。

 形がほとんど残らないものがどのように手を加えられたかを調べるのは、死体無き殺人事件を解明していくようなもので、最も有効な手段はやはり状況証拠を積み立てていくしかない。たとえば、当時のお米の収穫量や食べるときの家族の構成単位、カマドの有無、どんな器や道具を使ったかなどもどう調理したかに関係する。
 つまり、お米の収穫が少なければお粥あるいは雑炊であった可能性が高く、また、食器の形が皿状だと固形のご飯、椀状だとご飯も汁状のお粥も雑炊も可であり、さらにご飯だとお箸あるいは手(指)、お粥・雑炊だと匙(スプーン)を使ったとか、様々な推定が可能になる。

 ここでは、全部について検討しきれないので、これまでに見つかった弥生時代後期の煮沸容器の有効な資料をいくつか紹介し、ご飯かお粥か雑炊かにしぼって、核心に迫ってみよう。

 筆者は、完形またはほぼ完形の土器がまとまって出土した岡山市百間川原尾島遺跡と倉敷市上東遺跡の井戸状遺構に注目し、その中の甕(二十個と三十個)などを取り上げた。外面のススの付き方と吹きこぼれの有無・内面の炭化物痕跡(オコゲ)の有無と特徴などを詳細に観察してみた。

上東遺跡出土甕(下写真左側のもの)の底についたお米のオコゲ
上東遺跡出土甕(下写真左側のもの)の底についたお米のオコゲ

 その結果、次のことが判明した。

(1)原尾島甕はすべて炉型(底が接地した状態で火を受けている)、上東甕は七十七パーセントが炉型で三十三パーセントがカマド型(底が浮いた状態で火を受けている)である。

(2)吹きこぼれは、原尾島甕が五十パーセント、上東甕が約六十三パーセントに認められた。

(3)オコゲは、原尾島甕が不明ながら上東甕は三十個全部に何らかの痕跡が認められ、特定できる炭化物の割合はお米が五十三パーセントを超え、アワ?十七パーセント、お米との混炊(雑炊)約七パーセント、不明二十三パーセントであった(不明七個の内五個はアワ・ヒエの類か?)

 以上の結果は、(1)から上東甕が弥生時代の終わり頃の時期であるので、その頃にカマドが普及し始めたこと、(3)からご飯かお粥かは別にしても、少なくとも半分以上の割合でお米が炊かれ、お米とアワまたはそれ以外の混炊も二十パーセント近くおこなわれていたことをうかがわせる。
 また、(2)からご飯の場合では吹きこぼれが生じた跡に火を遠ざけて蒸らすため、吹きこぼれ痕跡の上にススをかぶりにくいと考えられるので、逆に痕跡が目立つものはご飯を炊いた可能性が高く、(3)の結果を加味すれば、三世紀の半ば前後にはご飯と混炊(雑炊)の割合が半々くらいであったと推定されるのである。

上東遺跡出土甕(右側は吹きこぼれがみられる)
上東遺跡出土甕(右側は吹きこぼれがみられる)

 なお、お米を蒸す方法は、蒸気を発生させるに十分な火力の保持を可能にした竪穴住居の作り付けカマドとセットで、甑(こしき)が朝鮮半島から伝わった五世紀の初め以降とみて間違いない。

「考古教室」でのご飯炊き体験
「考古教室」でのご飯炊き体験

 

(グラフおかやま1997年11月号より転載)