ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

弥生住居と集落

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 高畑 知功

 

 吉備の米作りは、米の特性を熟知した弥生時代の人々により県南の沖積平野を中心に開始され、またたく間に県北の地にまでおよんでいます。

 この事実は、発掘調査により弥生時代の集落から発見される水田・用排水路などの遺構や、石包丁・石鎌・木製の鋤(すき)・鍬(くわ)等の稲作関連の遺物からうかがい知ることができます。
 従来の採集・狩猟・簡易な栽培が主であった縄文時代の生活にくらべ、重要な食料源となる米作りを受容した人々が開田・造田の共同作業や、配水・種籾等の管理を通して、労働力の組織化をはかり、安定した農村集落を各地に展開させていったと考えられます。

 さて、それでは農村集落を形成した弥生時代の人々はどのような「くらし」をしていたのだろう。どんな家族構成で、どんな家に住み、どんな生活を営んでいたのだろう。子供たちは終日どのように過ごしたのだろう。男女の役割分担はあったのだろうか、と考えるとき、何百万年も前から脈々と流れている人類の歴史を飛び越え、現実の我々の生活に重ね合わせ、家族構成は当然現在と同じとして思いを巡らしていることが多いと思います。

 しかし、遺構・遺物を対象とした考古学的な手法による「くらし」の復元にはおのずと限界があります。まして、家族とか遊びとか言葉のように痕跡が形として残らないものは、さらに復元を困難にしています。
 反面、住居、掘立柱建物・袋状土壙・土壙・井戸・溝のように地面を穿って作られたものは痕跡を形としてとどめており、我々に過去の重要な情報を提供してくれます。そこで、近年発掘調査が行われた勝央町内にある小中遺跡の集落の一部を上空から覗いてみます(写真)。

勝央町小中遺跡 弥生時代中・後期の集落
勝央町小中遺跡 弥生時代中・後期の集落

 日当たりのよい丘陵の南向き斜面を中心に8軒の竪穴住居(A-J)、東西の竪穴住居に挟まれた場所には倉庫と考えられる4棟の掘立柱建物(O-R)と広場・道(T)、東西二カ所に四棟の共同作業場(K-N)、その他の構造物(I)柱穴等が写っています。
 竪穴住居は入母屋造りと考えられ、床面積は十平方メートル前後の小形から六十平方メートルの大形、中でも二十から四十平方メートルの中形が多数を占めます。しかし、すべてが同時併存ではなく、たとえば弥生中期の遺構はA・B住居とL・Mの共同作業場、O-R等の掘立柱建物からなり、この丘陵では六軒の竪穴住居が集落の単位を構成しています。

 後期では西側にまとまる五軒の竪穴住居間の距離、切り合い、出土した土器からC・D・E・Fの各住居が順次作られたことが判明しており、総じて大型化傾向を示しています。なかでも後期中葉のD住居では同心円状に三回の建て替えを繰り返し、床面積が当初の二倍以上に拡張されています。

 後期後葉ではG住居のように中→大→小と拡張、縮小が行われ床面積が二分の一以下になり小形化に向かいます。弥生時代の集落規模の変動は、その集団が持つ安定した生産、経済基盤に大きく左右されることもさながら、集団をとりまく周囲の経済的な環境が最も投影されているようです。

 他の地域では、次の古墳時代のはじめには床面積が百四十平方メートル(四十二.五坪)の方形の竪穴住居が忽然(こつぜん)と姿を現しています。

総社市横寺遺跡出土 家形土製品(弥生時代後期)
総社市横寺遺跡出土 家形土製品(弥生時代後期)

総社市窪木薬師遺跡出土 絵画土器(弥生時代中期)
総社市窪木薬師遺跡出土 絵画土器(弥生時代中期)

鏡野町九番丁場遺跡の竪穴住居(弥生時代後期)
鏡野町九番丁場遺跡の竪穴住居(弥生時代後期)

津山市沼遺跡の復元住居
津山市沼遺跡の復元住居

 

※グラフおかやま1997年10月号より転載