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ひろがる弥生水田

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 江見 正己

 

 今年は例年になく台風上陸の多い年となり、九州地方をはじめ島根県などでは暴風雨による土砂崩れや河川決壊 など、人命をも奪う大きな災害をもたらしている。
 いっぽう、岡山県下では桃の落果など農作物の一部に打撃を与えたものの、大きな被害には到らず、今更ながら気候風土の良さに胸をなで下ろすところである。このように恵まれた自然のなかにあって、岡山県では稲作りはどのように発展していったのだろうか。

 総社市の南溝手遺跡では先月紹介したように、縄文時代後期にはすでに稲の存在することが明らかにされ、これまで教科書で教わってきた縄文時代=狩猟・採取の時代、弥生時代=鉄器の普及・水田耕作の開始期という図式は大きく揺らぐこととなった。
 しかしながら発見された稲(痕跡とプラントオパール)がどのようなところで栽培されていたか、水田の発見までにはいたらなかった。

 ところで稲の伝来はさておき、稲作りは人びとの生活基盤の安定をもたらし、発展を促す結果となった。この証としての水田跡の発見は昭和五十二年、百間川遺跡群で平面的に検出されて以来、現在十遺跡あまりに達している。
 写真(下)は弥生時代前期の水田と用排水路が発見された北方横田遺跡の様子である。都市計画道路建設に伴って調査されたもので、調査区周辺には水田が残され、中央上部には国道五三号が走り、左上には県営グラウンドの照明灯が見える。

北方横田遺跡の前期水田
北方横田遺跡の前期水田

 発見された水田は低くて細い畦によって区画され、平面は三角形やいびつなものもみられるが、方形を基本としていた。また、一枚の水田面積は4-10数平方mと様々であるが、なによりも調査区外に見える現在の水田と比べ一目瞭然、当時の水田区画は極めて小 さいことが判る。

 それでは弥生人たちはどのようなところに水田を造っていったのだろうか。

 弥生人たちは居住の場を川が運んでくる土砂によって形成された自然堤防上(微高地)に求めるいっぽう、微高地縁辺に水田を開発していった。
 写真のように弥生時代前期、今から約二千数百年前にはすでにこのような整然とした水田が営まれており、これもまた教科書に書かれたように、稲作りは原始的な湿田から乾田開発へ移行していったのではなく、当初から乾田耕作していたことが明らかになりつつある。
 微高地縁辺から開始された水田開発は弥生時代後期、今から約千八百年前には堅くしまった微高地縁辺をさらに掘り広げるとともに、微高地間のやや湿潤な低位部にまでもその手が加えられるようになり、百間川遺跡群では原尾島から兼基にかけて、直線距離にして約2.5kmに及ぶ広範な一帯から水田
跡が発見されている。

百間川原尾島遺跡の稲株痕跡
百間川原尾島遺跡の稲株痕跡

 これら大規模な水田開発に農耕具の果たした役割は大きく、後期には木製の鍬や鉄製刃先を付けるものが現れ、これらによって飛躍的に耕地が拡大されていったことも想像に難くない。

いろいろな農耕具
いろいろな農耕具

 また、百間川遺跡群からは部分的ではあるが規則性の認められる稲株痕跡が発見されており、この時期にはすでに田植えが行われていたと考えられるようになった。
 弥生時代約六百年、弥生人たちは約六百回の稲作りを行うなかで、耕地を拡げ、備蓄を覚え、戦争を経験し、新たな時代、古墳時代を創り出していったのである。

 

※グラフおかやま1997年9月号より転載