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環境の変化と縄文人

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 杉山 一雄

 

 長く寒かった氷河期も、今から一万二千年前には地球規模での温暖化とともに終わりを告げた。
 それに伴って、旧石器時代以来人々の生活を支えていた環境も大きく変わっていった。陸上では、針葉樹に代わって落葉広葉樹がその範囲を拡大し、果実や木の実を枝に実らせた。
 それは人間だけでなく動物たちにとって安定した食料源となった。また、それまで川や湖沼のあった瀬戸内海は、紀伊水道と豊後水道から徐々に海水が入ってきて、その中に豊富な魚介類を育んだ。
 こういった環境が、これから約九千年間続く縄文時代の狩猟・漁労・採集生活を支えていく。

 岡山県で縄文土器を伴った縄文人の生活がうかがい知れるのは、約九千年程前になってからだ。現在瀬戸内海に浮かぶ牛窓町黄島の標高約三十メートルの台地上には、このころの貝塚が残っている。
 小高い丘の上で周囲が見渡せる立地は、そのふもとを歩く動物たちを一望でき、すぐさま弓矢や槍を手にとって狩りに飛び出していける。近くを流れる小川ではシジミなどの貝が取れ、それらを土器で煮て食べていたのだろう。

 そんな生活も海水面の上昇によって大きな転機をむかえる。

 今までふもとの草原に生い茂っていた草木は枯れ、それをえさにしていた小・中型動物たちはえさを求めて内陸部へ移動してしまった。当然、その動物をえさにしていた大型動物も次第にその姿を消していった。
 それでも、黄島の人々は海水に棲むハイガイ・ハマグリといった貝や魚を取って生活を続け、何とか新しい環境での生活を模索していた。しかし、次第に広がっていく海に対してますます減っていく動物のために、住み慣れた土地を捨て生活の場を内陸部に移していった。

 このころ中国山地の山間部ではどういった生活をしていたのだろう。

 蒜山高原にある川上村中山西遺跡や城山東遺跡などでは竪穴(たてあな)住居とそれから離れた丘陵の縁辺部に百基近い落とし穴が確認された。
 このことから、ここで暮らしていた縄文人は一人で動物を追いかけて狩りをするだけでなく、動物を集団で落とし穴に追い込んだりしていたようだ。また、津山盆地にある津山市大田西奥田遺跡や鏡野町竹田遺跡でも竪穴住居が見つかっている。

大田西奥田遺跡と同時代の土器
大田西奥田遺跡と同時代の土器

大田西奥田遺跡の竪穴住居
大田西奥田遺跡の竪穴住居

 これらは、居住地の規模の大小はあるものの、周囲に豊富に存在する山の幸と河川の資源を活用して、定住生活を営んでいたことを物語っている。しかし、安定していると思われた山間部も、やはり気候の変化や動物のとりすぎなどの理由で六千年前ごろには居住地を移したようだ。
 これ以降には、次第に平地に居を構える人々が増えている。山間部の様子はまだよく分からないが、沿岸部では倉敷市羽島貝塚・福田貝塚といった大規模な貝塚が多く残されている。

 県南部の足守川下流で、約四千年前に営まれた倉敷市矢部貝塚からは約八十箱の貝や動物・魚の骨が出土しているので、この中を見てみることにする。

矢部貝塚の貝層
矢部貝塚の貝層

 シジミを主体とした貝類に混じって、哺乳類のイノシシ・シカ、魚類のスズキ・クロダイ、爬虫類のヘビ・スッポンなど多くの種類の動物が見られる。九千年前には環境の変化に戸惑っていた縄文人も、周囲の環境に慣れて、食卓がにぎやかになったようだ。

縄文時代の石器
縄文時代の石器

 

※グラフおかやま1997年6月号より転載