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遺物

更新日:2019年9月25日更新

遺物紹介コーナー

遺物紹介コーナー

石包丁(いしぼうちょう)

 石包丁とは、稲などの穀物(こくもつ)を収穫するために使われた石の道具です。多くは手のひらに収まる大きさで、厚さ1~3cmほどと薄く、長方形や半月のような形をしています。
 弥生時代に、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から稲作(いなさく)と一緒に伝わってきました。使い方は、片側にある鋭い刃で、稲などの穂(ほ)をひとつひとつ摘(つ)み取るものです。とても手間のかかる作業ですが、当時の穀物は育つスピードがばらばらだったため、実ったものから順に摘み取っていたと考えられています。
 岡山県では、石をみがいて作った磨製(ませい)石包丁と、石を打ち欠いて作った打製(だせい)石包丁の2種類が見つかっています。

石包丁を使う様子の再現
実際に石包丁を使う様子(再現)

磨製石包丁
百間川遺跡群(ひゃっけんがわいせきぐん)から出土した磨製石包丁。
持ちやすくするために、ひもを通す穴が2つあけられています。

打製石包丁
百間川遺跡群(ひゃっけんがわいせきぐん)から出土した打製石包丁。
香川県で採れる「サヌカイト」という石で作られています。

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  • 石包丁は、当センターに展示しています。

貨泉(かせん)

 貨泉とは中国の新(しん)<紀元後8から23年>から後漢<25年から220年>の初めに造られたお金です。当時、弥生時代だった日本列島でも見つかっています。岡山県内では岡山市高塚(たかつか)遺跡や倉敷市上東(じょうとう)遺跡で出土しており、高塚遺跡のものは国の重要文化財に指定されています。ただ、弥生時代の人々がこれをお金として使っていたわけではないようなので、なぜ国内に入ってきたのかはナゾです。
 さて、この貨泉は土器や住居の年代を知る上で重要なヒントを与えてくれます。貨泉が造られていたのは約2,000年前ごろ、それも約30年という短かい期間だったことがわかっていますので、貨泉がいっしょに出てくれば、その土器や住居のだいたいの年代がわかるのです。

貨泉
岡山市高塚遺跡で見つかった貨泉

貨泉が見つかった様子
高塚遺跡で貨泉が見つかった様子。穴の中から見つかりました。

勝間田焼(かつまだやき)

 勝間田焼は平安時代の終わりごろ<約800年前>に、現在の勝央町勝間田(かつまだ)盆地を中心に焼かれていた焼き物です。主に、椀(わん)・小皿・鉢(はち)・壺(つぼ)・甕(かめ)といった製品が作られました。備前焼や亀山焼と同じように、窯(かま)の中でとても高い温度で焼かれました。そのため、かたくて灰色っぽい色をしているものが多いです。
 発掘調査から美作地域一帯に流通していることがわかっており、当時の集落で日常品として使われていました。しかし、この勝間田焼は鎌倉時代までで生産を終えてしまいます。

勝間田焼椀
勝央町大河内遺跡から出土した鎌倉時代の椀(奧)と小皿(手前)です。

勝間田焼捏ね鉢
勝央町大河内遺跡出土の捏ね鉢(こねばち)です。

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  • 当センター展示室には勝間田焼が展示されています。

亀山焼(かめやまやき)

 亀山焼は、窯(かま)で焼かれた灰色の硬い焼き物です。焼かれていた場所の地名から亀山焼と名付けられました。
 亀山焼が作られ始めたのは平安時代終わりごろ<約800年前>です。山陽新幹線新倉敷駅から北約2.5kmにある玉島陶(たましますえ)で、須恵器(すえき)や瓦(かわら)を焼いていた職人達が、玉島八島(たましまやしま)の亀山というところへ移り住み、作られ始めたと考えられています。その後、室町時代後半<約500年前>まで作られました。高さ50cmを超える大きな甕や、鉢・すり鉢などが作られていた一方、お寺で使用する瓦(かわら)も焼かれており、倉敷市安養寺(あんようじ)や岡山市真如院(しんにょいん)などに使われています。
 亀山焼は岡山県西部や広島県東部を中心に、瀬戸内海沿岸一帯に流通しましたが、技術革新を進めて発展した備前焼におされ、おとろえていったと考えられています。

様々な亀山焼
さまざまな形の亀山焼(手前が瓦、奧左が甕)

亀山焼を焼いた窯
亀山焼を焼いた窯跡

亀山遺跡から見た玉島平野
窯跡から南東の新倉敷駅方向を望む
(昭和60年当時)

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  • 当センター展示室には亀山焼が展示されています。

彩文土器(さいもんどき)

 ごくまれに、赤色の文様で美しくかざられた弥生土器が出土します。このような顔料(がんりょう)<水に溶けない絵の具>で描いた文様のことを彩文といいます。木製品に描かれることもありますが、弥生土器の特徴的な文様のひとつです。 彩文土器には、弥生時代前期<今から約2,300年前>のものと、後期<約1,800年前>のものがあります。前期の彩文土器は、器の表面をいったんウルシなどで黒く塗った上に赤色の模様を描き、後期のものは、写真のように土器の表面に直接描いています。 彩文土器は、弥生時代のまつりの中心的な土器として用いられたと考えられます。

彩文土器
岡山市の百間川原尾島(ひゃっけんがわはらおじま)遺跡出土の彩文土器。弥生時代後期の長頸壺(ながくびつぼ)の肩にS字状の渦文(うずもん)4個があざやかに描かれています。

彩文土器が見つかった様子
彩文土器が井戸から出土した様子。いっしょにかざられた壺や甕がたくさん出土しました。彩文土器は、飲食をともなうようなまつりの中心的な土器だったのかも知れません。

縄文土器(じょうもんどき)

 今からおおよそ1万2千年前、私達の祖先は粘土を使って器を形作り、それを焼いて土器にするという技術を発見しました。そして、この土器の発明により食べ物の煮炊(にた)きができるようになり、貝やかたい木の実などいろいろなものを食べることができるようになりました。この土器の表面には縄目が残っているものが多いことから、縄文土器と呼ばれています。このほかにも土器の表面に様々な文様が描かれていました。
 縄文土器は各地域や年代によってとても個性豊かなことが特ちょうで、器の形や文様の変化から、草創(そうそう)期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分されています。

百間沢田遺跡の縄文土器
岡山市百間川沢田(ひゃっけんがわさわだ)遺跡から出土した縄文土器。縄文時代後期後半のもので、ずんぐりとしている深鉢(ふかばち、写真右と左)と、ボールに似ている浅鉢(あさばち、写真中央下)の2種類があります。

阿津走出遺跡の縄文土器
倉敷市阿津走出(あつはしりで)遺跡から出土した縄文土器。大きな深鉢(写真右)は波うった口の形と文様に特ちょうがあります。

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  • ここで紹介した百間川沢田遺跡と阿津走出遺跡の縄文土器は当センター展示室に展示されています。
  • 岡山県立博物館にも縄文土器がたくさん展示されています。

製塩土器(せいえんどき)

 製塩土器とは海水から塩を作る時に使われた土器のことです。岡山県内では弥生時代から奈良時代ぐらいまで使われていたようです。
 塩を作るためには海水をにつめて、こい塩水を作ります。それを土器に入れて火にかけ、水分を蒸発させて塩を作ります。このような塩作りを土器製塩といいます。
 「晴れの国」岡山県は、その名の通り雨が少なく、また暖かな気候であるため、海辺では土器製塩がさかんにおこなわれていました。岡山県内の土器製塩は弥生時代中期中ごろ<今から2,100年ほど前>にはじまり、以後日本の塩作りの中心となりました。これはおだやかな気候のたまものと言えるでしょう。

壁一面に見える製塩土器
倉敷市児島阿津走出(あつはしりで)遺跡で見つかった製塩土器だまり(上)と復元された製塩土器(下)です。

当センターの考古学講座で土器製塩を行った様子

炉で焼かれる製塩土器
火にくべられた製塩土器

どんどん塩水をつぎ足します。
火の熱さに負けず塩水をつぎ足します。

土器の中に見える白い塩
がんばった結果、おいしい塩を作ることができました!

装飾付大刀(そうしょくつきたち)

 握りの先端や鞘(さや)などに金や銀、金銅装(こんどうそう)でかざられた大刀で、主に古墳時代後期(約1,400から1,500年前)の古墳から出土します。装飾には(りゅう)や鳳凰(ほうおう)などをかたどったものや、象嵌(ぞうがん)により模様を描いたものがあります。装飾付大刀は貴重な金属を使用し、高い技術で加工するため、誰もが入手できたとは考えられません。装飾付大刀は権力のシンボルだったのでしょう。

単竜環頭大刀
赤磐市岩田14号墳出土の単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)握りの先に龍の頭をかたどったかざりが付いています。(赤磐市教育委員会提供)

双龍環頭大刀
真庭市大谷1号墳出土の双龍環頭大刀(そうりゅうかんとうたち)こちらは向かい合う2匹の龍を現しています。(真庭市教育委員会提供)

銀象嵌大刀
赤磐市平岩古墳出土のかざり金具表面に細く浅い溝を掘り、そこに銀をはめこんで、うろこのような文様が刻まれています。

頭椎大刀
真庭市土井2号墳出土の頭椎大刀(かぶつちのたち)握りの先端に球形の装飾がついています。

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  • 当センター展示室に土井2号墳出土の頭椎大刀を展示しています。
  • ここで紹介した単龍環頭大刀は赤磐市立山陽郷土資料館で見学できます。
  • ここで紹介した双龍環頭大刀は北房ふるさとセンターで見学できます。

盾持ち人形埴輪(たてもちびとがたはにわ)

 古墳時代に使われた埴輪には様々な種類がありますが、盾持ち人形埴輪は人をモデルにした埴輪です。正面に盾を持ち、上に人物の頭部がのるデザインが一般的です。警備をする兵士の姿を表していると思われます。古墳時代の中ごろ <1,550年前>に関西地方で出現し、古墳時代後期<約1,500年前>には全国に広まります。
 岡山県内では赤磐市の土井遺跡で見つかっています。土井遺跡では古墳時代後期の埴輪を焼いた窯(かま)の跡が見つかっており、この盾持ち人形埴輪もこの窯で焼かれたものです。焼かれた埴輪はここから古墳に運ばれたと見られますが、この埴輪は運ばれることなく、窯の近くで見つかりました。細長い筒の上に冠を付けた頭部をのせ、台形の盾を体の前に表しています。盾には小さな穴が開いていますが、ここにかざりを付けていたと考える人もいます。

横たわる盾持ち人形埴輪
土井遺跡の埴輪窯近くで出土した盾持ち人形埴輪。多数の埴輪とともに見つかりました。灰色に見えるのは焼かれた温度が高かった証拠(しょうこ)です。

遠くを見つめる盾持ち人形埴輪
盾持ち人形埴輪の上部。耳や鼻の表現が細かく、やや頭を傾(かたむ)けています。遠くを見つめているのでしょうか。

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  • ここで紹介した盾持ち人形埴輪は、当センターに展示しています。

特殊器台・特殊壺(とくしゅきだい・とくしゅつぼ)

 特殊器台・特殊壺は弥生(やよい)時代後期の終わりごろ<今から約1,800年前>の墓から見つかる葬式(そうしき)用の土器です。岡山県を中心として広島県東部、島根県、奈良県の一部で用いられました。それ以前に作物にかかわるおまつりに使っていた壺と台が、大きくなり赤い色を塗って文様をたくさんつけたものへ変化したと言われています。特殊器台には透し孔(すかしあな)が開けられており、合わせて弧帯文(こたいもん)という文様が描かれています。特殊壺は大形の壺ですが、底に穴が開いており、飲み物などを入れることはできません。これらから、特殊器台と特殊壺はお葬式用に作られた特別な土器であることがわかります。
 弥生時代の後期末ごろ(約1800年前)には特殊器台と特殊壺は大きな墓や集団墓地で用いられます。やがて古墳時代の初頭になると、特殊器台の脚部(きゃくぶ)や口縁部(こうえんぶ)が小さくなり、文様が少なくなります。これを特殊器台形埴輪と呼びます。これが円筒埴輪(えんとうはにわ)の起源といわれています。

器台から特殊器台への変化

壺と器台

倉敷市上東(じょうとう)遺跡出土の器台と壺。弥生時代後期中頃。器台の上に壺をのせて安定させます。

特殊器台と特殊壺

新見市西江(にしえ)遺跡出土の特殊器台と特殊壺。弥生時代後期末頃。特殊器台は大きく発達した脚部(きゃくぶ)、口縁部(こうえんぶ)と装飾が多く描かれているのが特徴です。

特殊器台型埴輪

倉敷市矢部堀越(やべほりこし)遺跡出土の特殊器台形埴輪。古墳時代初頭。口縁部が小さくなり、また脚部がなくなっています。装飾(そうしょく)も少なくなり、後の円筒埴輪の先祖にあたります。

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  • ここで紹介した壺、器台、特殊器台は当センターに展示しています。

陶棺(とうかん)

 陶棺は、古墳時代の終わりごろ<今から約1,400から1,300年前>に使われた粘土を焼いて作った焼き物の棺(ひつぎ)です。 陶棺の底には筒状(つつじょう)の脚(あし)がたくさんついています。陶棺は蓋(ふた)の形に特徴(とくちょう)があり、蓋の形が亀のこうらに似ているものと、家の屋根に似ているものの大きく2つにわけられます。亀のこうらに似ているものの方が古く、家の屋根に似ているものの方が後で現れると考えられています。焼き色にも違いが見られ、赤い色と灰色のものがあります。
 陶棺はこれまで九州から東北地方にかけての広い地域で見つかっていますが、なかでも岡山県は全国で陶棺の出土数が最も多いことで知られています。

畑の平7号墳の石室と陶棺
身の中に蓋が落ちこんでいる、勝央町畑の平(はたけのひら)7号墳の陶棺

弥上古墳の陶棺
横から見た赤磐市弥上(やがみ)古墳の陶棺。蓋の形が亀のこうらに似ています。

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  • 陶棺は当センター展示室に展示しています。

陶馬(とうば)

 馬の形をした須恵質(すえしつ)の焼き物です。飛鳥時代から奈良時代にかけての出土例があり、岡山県では8例ほど確認されています。官衙(かんが)遺跡の近くを流れる川や溝などから出土することが多いので、水辺で行われる公的なまつりとの関わりが考えられます。
 陶馬は完全な形で見つかることはなく、意図的に足や尾などの体の一部のほか、鞍(くら)などの馬具(ばぐ)が打ち欠かれています。これは神様へ馬を捧げることにより降雨を願う、あるいは、馬に乗り流行病をまきちらす疫病神(やくびょうがみ)の動きを封じ込めようとする古代人の祈りを表していると思われます。

南溝手遺跡の陶馬
総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡出土。全長約24cmで、鞍などの馬具を表現した飾馬(かざりうま)です。

久田原遺跡の陶馬
鏡野町の久田原(くたばら)遺跡出土。全長約21cmで、左の陶馬と違い、馬具をもたない裸馬(はだかうま)です。

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  • 当センターの展示室には岡山市津寺(つでら)遺跡出土の陶馬が展示されています。

銅鐸(どうたく)

 銅鐸は弥生時代に用いられた青銅器(せいどうき)です。今から2,300年から1,800年前の弥生時代、お祭りの時に使われていたカネと考えられています。 岡山県内では20個近くの銅鐸が見つかっていて、岡山県古代吉備文化財センターが調査を行った岡山市高塚遺跡(たかつかいせき)でも発見されています。
 銅鐸にはいろいろな絵や文様(もんよう)が描(えが)かれています。高塚遺跡から出土した銅鐸は、流水文(りゅうすいもん)と呼ばれる水の流れをあらわした文様が描かれていました。 銅鐸は最初、音を鳴らして使われていましたが、その後大きくなるにつれ、鳴らさずに見るだけのものに変化していったと考えられています。高塚遺跡から出土した銅鐸は新しい種類のもので、鳴らさずに見るだけの銅鐸であったと考えられます。

見つかった銅鐸
高塚遺跡で銅鐸が見つかった様子。楕円形(だえんけい)の穴に横に寝かされるように埋められています。

銅鐸と文様
高塚遺跡の銅鐸とその文様。この銅鐸は流水文のほか文様を仕切る突線(とっせん)が特徴的で、国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定されています。

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  • 岡山県立博物館には高塚遺跡の銅鐸をはじめとして、岡山県内で出土した銅鐸が展示してあります。

備前焼(びぜんやき)

 備前焼は伊部(いんべ)焼とも呼ばれ、備前市伊部で今も作られている、岡山県を代表する焼き物です。釉薬(うわぐすり)を使わず、高い温度で長い時間焼いているので、とてもかたくできています。焼いたときに窯の中の灰や焼き物同士がくっつかないように巻かれたわらの痕跡が、うつわの表面にきれいな模様となって現れることもあります。
 備前焼が作られ始めたのは今から約800年ほど前で、伊部の西の邑久(おく)<現在の瀬戸内市>で須恵器(すえき)を焼いていた職人が伊部に移り住んで、作り始めたとされています。

備前焼の大きな甕
室町時代の備前焼の甕。大人がすっぽり入ってしまうほどの大きさです。

備前焼の壺
鎌倉時代の備前焼の壺。口の縁が丸くなっています。

備前焼の小壺
備前焼にはいろいろな種類があります。これは片口の小壺です。

備前焼のすり鉢
室町時代終わりごろの備前焼のすり鉢。備前焼はとても硬(かた)かったので、すり鉢に向いていました

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  • ここで紹介した備前焼の甕は、当センターに展示しています。
  • 岡山県立博物館にも備前焼がたくさん展示されています。

分銅形土製品(ふんどうがたどせいひん)

 弥生時代中期から後期<今から2,200から1,900年前>の人びとが使っていたナゾの道具。粘土(ねんど)をタイルのようにして形を作り、焼きあげています。完全な形で見つかることはほとんどないのですが、復元すると幅は5から10cmのものが多いようです。
 表面には不思議(ふしぎ)な文様が描かれていることが多く、顔を表わしたり、赤くぬられたりすることもあります。上の端(はし)には数個から10個くらいの小さな穴が開けられたものも多く、そこにかざりを差し込んでいたのかもしれません。まつりの時などに何かに取り付けて使われたと考えられていますが、くわしいことはよくわかっていません。
 中国・四国地方を中心に、約760点見つかっています。なかでも岡山県南部が半数近くを占めて一番多く、2番目に鳥取県、3番目兵庫県南部、4番目が広島県東部となっています。

大きな分銅形土製品
大きな分銅形土製品。岡山市の百間川兼基(ひゃっけんがわかねもと)遺跡出土で、復元幅は18cmあります。中央や縁(ふち)に独特の文様が描かれています。上の面には穴が開けられています。

顔の付いた分銅形土製品
顔のある分銅形土製品。岡山市の加茂政所(かもまどころ)遺跡出土で幅は7.1cmあります。眉(まゆ)と鼻は粘土をはり付けています。鼻の穴まで表現しています。

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  • 分銅形土製品は、当センターに展示しています。

勾玉(まがたま)

 勾玉とは、縄文時代から人々が身につけていたアクセサリーです。三日月形に曲がった形をしており、あなにひもを通してペンダントにしていました。
 特に、古墳(こふん)から多く見つかっており、翡翠(ひすい)や碧玉(へきぎょく)、瑪瑙(めのう)などの色あざやかな石やガラス・金・銀といった貴重な材料で作られました。また、大きな勾玉に小さな勾玉をいくつもくっつけたような形の「子持(こもち)勾玉」は、まつりの時に使っていたようです。このことから、勾玉は貴重なアクセサリーであるとともに、まよけやおまもりのような特別な役割もあったことが想像できます。

いろいろな勾玉
いろいろな石で作られた勾玉。右から翡翠(岡山市百間川原尾島遺跡出土)、瑪瑙、水晶(赤磐市斎富古墳群出土)。

いろいろな形の玉
津山市室尾石生谷口古墳出土の勾玉・切子玉(きりこだま)・管玉(くだたま)。勾玉をほかの形の玉とつないでごうかなネックレスにすることもありました。

子持勾玉
百間川原尾島遺跡出土の子持勾玉。大きな勾玉には模様(もよう)が描かれており、まわりに9つの子玉がついています。

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  • 勾玉は、当センターに展示しています。

鏃(やじり)

 鏃(やじり)とは矢の先に付けるするどい部分のことをいいます。弓矢は狩りや争いに古くから使われており、石や青銅、鉄などを材料にして、いろんな鏃が使われていました。
 弓矢は縄文時代初めごろ<約13,000年>に使われ始め、それといっしょに石で作った石鏃(せきぞく)が現れます。弥生時代後半<約2,000年前から1,800年前>には、銅鏃(どうぞく)や鉄鏃(てつぞく)といった金属の鏃が石鏃にかわって広まります。古墳時代後半<約1,500年前から1,400年前>以降は、主に鉄鏃が使われるようになります。
 古墳時代には古墳に弓矢が副葬(ふくそう)されたので、鏃もたくさん見つかります。なかには副葬専用の鏃があったという人もいます。

縄文時代の鏃
倉敷市阿津走出(あつはしりで)遺跡出土の縄文時代の石鏃。やや厚く、刃の根元がまっすぐなものと、凹んでいるものがあります。

弥生時代の鏃
岡山市百間川兼基(ひゃっけんがわかねもと)遺跡出土の石鏃。縄文時代の石鏃に比べてうすく、するどいものが増え、これらは争いに使われたという人もいます。

銅鏃
岡山市百間川原尾島(ひゃっけんがわはらおじま)遺跡出土の弥生時代の銅鏃と、総社市窪木(くぼき)遺跡出土の古墳時代の銅鏃。古墳時代の銅鏃はきれいに刃が研ぎ出されています。

古墳時代の鏃
岡山市西山(にしやま)6号墳出土の古墳時代後半の鉄鏃。古墳時代の鉄鏃は、時期や地域ごとで、いろんな形が見られます。

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  • 石鏃や鉄鏃は当センターで展示しています。

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