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岡山から兵庫、そして宮城へ...「被災地で掘る」ということ

更新日:2025年11月25日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター  岡本泰典

はじめに

 平成の30年間は、巨大地震の頻発する時代でもありました。中でも平成7年の阪神淡路大震災と23年の東日本大震災は、遺跡発掘という私たちの仕事にも、大きな影響を及ぼしています。
 私は平成7年度に兵庫県、25・26年度に宮城県へと派遣され、それぞれ阪神淡路大震災、東日本大震災の復興に伴う発掘調査(復興調査)に携わりました。両方の復興調査に関わった、全国でも10数人しかいない埋蔵文化財担当職員(以下、調査員)の一人という、珍しい経験の持ち主です。
 私は何を思って現地に向かい、何を見てきたのか。当時の記憶を呼び起こしてみます。

兵庫県にて—復興する街とともに—

 平成7年1月17日の早朝、突然襲ってきた震度4の揺れに、当時津山市内のアパートで一人暮らししていた私は飛び起きました。そして出勤した事務所のテレビで、すぐ隣の兵庫県で発生した巨大地震のニュースに接したのです。「関西に大地震は来ない」という固定観念を打ち砕く、阪神淡路大震災の発生でした。
 同年4月の所内会議の日。会議後、当時の所長から「岡本君、兵庫県に行ってくれんか」と、まさかの言葉が飛び出しました。被災地の復興にあたり、工事予定地にある遺跡の発掘調査を担当する調査員が足りず、全国に派遣要請があるらしい、という話は聞いていました。しかし当時の私はまだ24歳の若輩者、そんな「大役」とは無縁と思っていたのです。驚きつつも、学生時代を関西で過ごしたこともあり、特に抵抗感はありませんでした。
 そして6月には、私は全国各地から集まった24名とともに兵庫県職員の一員となり、8月から被災地での発掘調査に出動しました。私が担当した現場は、神戸市と芦屋市の合計6か所で、私にとっては初めての市街地での発掘でした。
 神戸市長田区の「神楽遺跡」(写真1)は、付近に火災跡の更地が広がり、まさに被災地の真っ只中でした。そんな場所での調査には、地元からの反対を覚悟していましたが、幸いにも皆さん興味を持って見守ってくださり、復興に取り組む仲間として受けいれていただけました。折しも季節は真夏、近所の喫茶店の方が冷たい飲み物を差し入れて下さったことや、近くのプレハブ食堂で建設作業員さんたちと雑談しながら昼食をともにしたことなどが、調査成果以上に心に残っています。
 芦屋市では、阪急電車の線路のすぐ横で、「月若遺跡」の調査を行いました(写真2)。調査中は、現場の騒音・振動に近所から苦情が出たり、資材搬入の時に誤って水道管を壊したり、排土の山が線路との境のブロック塀に迫ったりと、最初から最後まで苦労の連続でした。分厚く堆積した土を掘り下げていくと、弥生時代から中世までの遺構が次々に見つかり、こちらの対応も大忙しでしたが、限られた期間での現場の進め方を学べた貴重な経験でした。
 当時の派遣職員は私も含め、20~30代の若手が中心でした。私がいた1年目に比べ、2・3年目には飲み会や勉強会なども盛んになり、各地から集まった若い調査員たちにとって貴重な情報交換や、現在まで続く人脈作りの場にもなったようです。派遣職員と整理作業員さんとのカップル成立という、素敵なエピソードも耳にしています。
 私が兵庫県にいたのは、年度末までの10か月です。短い期間とはいえ、復興する街とともに歩む貴重な時間を過ごせたことは間違いありません。こんな経験が再びあろうとは、当時は想像すらできませんでした。

写真1神楽遺跡の調査風景
写真1 神楽遺跡の調査風景。右端の二人は岐阜県と京都府からの派遣職員(出典:『ひょうごの遺跡』第18号 一部改変)

写真2月若遺跡の調査風景
写真2 月若遺跡の調査風景(出典:『芦屋市文化財調査報告第28集』)

宮城県にて―未知の世界での体験―

 平成23年3月11日の午後、センターで内勤をしていた私は、同僚の「東北ですごい地震みたいですよ」という一言で、東日本大震災の発生を知りました。その日、東北沿岸各地を襲った巨大津波、続いて起こった原発の重大事故は、テレビ画面を通じてとはいえ、生涯忘れることはできません。
 そして今度は、復興調査のために兵庫県よりもはるかに広大な、岩手・宮城・福島3県への調査員派遣が求められました。私も応じたい思いもありつつ、東北となると何の縁もないし…という不安で心は揺れました。とはいえ、未知の世界である東北への憧れが上回り、私は岡山県から宮城県への二人目の派遣職員として志願しました。
 25年4月、42歳の私は宮城県職員として赴任しました。着任してみると兵庫県の復興調査で同期だった人もおり、久々の再会を喜び合うと同時に、派遣職員の年齢は40~50代が中心で、業界の「高齢化」を感じたのも事実です。そして2年間にわたり、沿岸各地の発掘調査に従事することとなりました。

 最も長く関わったのは、陸奥国府多賀城の南に広がる古代都市の遺跡「山王遺跡」です。津波被災地からは離れていますが、復興道路の役目を果たす三陸自動車道のインターチェンジ建設場所として、復興調査の対象になりました。
 調査は、本連載でも紹介した山陽自動車道の調査を思わせる、総面積約24,578平方メートルに及ぶ大規模現場でした(写真3)。25年度の担当調査員は14名、作業員さんはいったい何十名いたのやら。直接尋ねはしませんでしたが、会話内容から仮設住宅住まいとわかる方もいて、それぞれの苦労が察せられました。
 調査を進めると、多賀城があった奈良~平安時代の掘立柱建物や道路跡が次々と見つかり、さすがは陸奥国府の古代都市だと実感しました(写真4)。一方、同時期に竪穴住居があるのは西日本の人間には驚きでしたし、土器の年代もまるで見当がつかないありさま。まさに未知の世界で、日本列島の文化的多様性を痛感したものです。
 現場で戸惑ったことといえば、まずは作業員さんが話す東北弁の聞き取りに少し苦労したこと。また、各地出身の調査員間で方針が食い違い、時として作業の進行にも影響したことがあったのも事実です。逆にありがたかったのは、夏の暑さが岡山より穏やかで、日除けの設置に悩まずに済んだことです。
 宮城県では、現地説明会による調査成果の発信を積極的に行いました。直接的な住宅や道路の再建でなくても、発掘調査が解き明かす地域の歴史は、住民の方々にとって地域への関心や愛着を高める契機になったと思います。時には数百人に及んだ現地説明会への参加者(写真5)を見て、そんな確かな手ごたえを感じました。
 もちろん思い出は山王遺跡だけでも、仕事だけでもありません。作業員さんとともに初日の雪かき作業から始まった現場。トレンチの中で3月11日の黙祷をした現場。そして何より、各地の被災地で出会った震災の爪痕(写真6)と、街の復興や記憶の伝承に尽力する人たち。災害の甚大さに改めて衝撃を受け、復興への歩みを全身で感じる2年間でした。
 私は派遣終了後も、宮城県をはじめ東北を何度か訪れ、発掘現場だった場所にも足を運びました。立派なインターチェンジ、線路、住宅地などに変貌した現地を眺めては、かつてここに集い、ともに汗を流した全国の仲間たちに思いを馳せています。​

写真3山王遺跡の調査
写真3 広大な発掘調査現場(宮城県多賀城市山王遺跡)

奈良時代の掘立柱建物(山王遺跡)
写真4 奈良時代の掘立柱建物(宮城県多賀城市山王遺跡)

現地説明会の様子
写真5 見学者でにぎわう現地説明会(宮城県南三陸町新井田館跡)

石巻市立大川小学校
写真6 石巻市立大川小学校(宮城県石巻市)

​おわりに

 阪神淡路大震災の発生から30年、東日本大震災の発生から14年がたちました。一方、南海トラフ巨大地震の発生確率は今後30年間で60~90%以上ともいわれます。災害がないのが一番ですが、もしかしたら、新たな復興調査が必要になる日が来るかもしれません。しかし私自身は歳を重ね、もう54歳です。次の派遣要請があったら…さすがに、体力と将来のある若い人に譲るでしょう。私は、派遣される彼ないし彼女の活躍と成長を願いつつ、岡山での調査員人生を全うしたいと思います。
 最後になりましたが、未曽有の大災害の中、復興の最前線で奮闘しつつ、私を仲間として受け入れてくださった兵庫県および宮城県の皆様に、ここで改めて厚くお礼を申し上げます。​