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平成27年度

更新日:2015年9月25日更新

 このコーナーでは、中世城館跡総合調査を担当している調査員からのホットな情報をお届けします。 この便りを通して、調査の様子を感じ取っていただき、興味・関心を深めていただければと思います。

第24号

平成27年度を振り返って

 3月中旬に現地調査を終えました。

 今年度は、岡山市(旧灘崎町、旧建部町、旧瀬戸町)、美作市、奈義町、美咲町、西粟倉村の2市2町1村に所在する214か所の城館跡(伝承地を含む)を対象に調査を行いました。その結果、曲輪や土塁、堀切などの遺構を確認した城館跡が109か所、何らかの造作が見られる城館跡が37か所、造作が確認できない城館跡が68か所あることが分かりました。
 現地調査にはのべ115日を費やし、週3~4日のペースで城館跡へ出かけました。それ以外はセンターにて、現地で記録した図面や写真の整理、文献調査、城館関連地名調査を行い、報告書の刊行に向けて作業を進めてきました。

 今年度は美作地域を本格的に調査したことから、現地にたどり着くまでかなり距離があったこと、険しい山の上にある城跡が多かったこと、深いヤブ以外に強風によって倒れた木に何度も行く手をはばまれたこと、時雨や雪に悩まされたこと、イノシシやシカにしばしば遭遇したことなど、これまでにない経験もありました。また、備前、播磨、因幡と接するこの地域には、城館跡が数多く築かれており、その立地や構造、規模にも地域的な特徴があることも分かってきました。このほか、平成25年度から実施してきた備前地域の調査も児島半島の一部を残しておおむね完了しました。
 そこで、今年度の現地調査を振り返り、調査員3名が感動した城館跡を御紹介します。

小原山王山城跡〈おはらさんのうさんじょうあと〉(美作市古町)

 城全体にあらゆる防御施設を配備。

淡相城跡〈あわいじょうあと〉(美作市粟井中)

 大規模かつ複雑な防御施設。

鞍懸城跡〈くらかけじょうあと〉(美作市田殿・楢原中)

 壮大な切岸で守られた南北朝期の城。

井内城跡〈いのうちじょうあと〉(美作市下山)

 曲輪を守る堅固な防御線。

大別当城跡〈だいべっとうじょうあと〉(奈義町高円・関本)

 日本原高原や津山盆地を一望。

江原城跡〈えはらじょうあと〉(美咲町里)

 主郭を守る急傾斜で高い切岸。

伊勢畑城跡〈いせはたじょうあと〉(岡山市北区下神目、久米南町上神目)

 土塁を多用した複雑な縄張り。

 このほかにも魅力的な城館跡がたくさんありましたが、以上はほんの一部。

 おかげさまで多くの方々の御協力により、無事に今年度の事業を終えることができました。

 さて、平成28年度は美作に加えて備中の城館跡も本格的に攻める予定です。さらなる調査成果に御期待ください。(S・Y・A)

春先に訪れた小原山王山城跡(美作市)
春先に訪れた小原山王山城跡(美作市)

大別当城跡(奈義町)からの眺望
大別当城跡(奈義町)からの眺望

第23号

呼び名に「尼」がつく城

 平成27年度に予定していた美作地域の現地調査もあと少しで終了となりますが、最近、この地域の山城について調査員の間で"あること"が話題になっています。実は美作国には「尼〈あま〉ヶ城」や「比丘尼〈びくに〉城」のように、呼び名に「尼」がつく城が13か所もあるのです(「比丘尼」の誤称「比丘」を含む)。しかも、美作市には9城、鏡野町に2城、奈義町と西粟倉村に各1城ありますが、津山市、真庭市、新庄村、勝央町、久米南町、美咲町では確認できていません。岡山県内に広げても、岡山市と井原市の2城しか見当たらず、総じて美作国でも東部にこうした城の名前が集中しています(表1・図1)。「尼」や「比丘尼」は仏門に入った女性を指しますが、なぜこの地域にこうした呼び名の城が多く見られるのでしょうか。

表1 岡山県内の呼び名に「尼」がつく山城一覧(「比丘」を含む)
No. 城名[別称] 所在地 備考
尼城・比丘尼ヶ城[黒山城] 西粟倉村長尾・美作市東吉田 春名新治郎の居城。尼子晴久により落城。
比久尼ヶ城[蜂谷城] 美作市宮本 城主不詳。
比丘尼ヶ城 美作市川上 城主不詳。山名時氏により落城。
尼ヶ城 美作市川上 城主不詳。山名時氏の執事小林重長により落城。
尼山城・比丘尼ヶ城 美作市壬生・沢田 赤松一族の居城。
比丘尼城 美作市長谷内・大町 尼子氏の城。技巧的な縄張り。
比丘ヶ城[天王山城・松田城] 美作市上福原 城主松田岩之丞が康安年間に山名氏と合戦、討死。
比丘ヶ城 美作市山口 安東千代一丸(康永年間)、安東左右馬助が居城。
比丘尼城 美作市楢原中 「金焼山」といわれる。
10 尼ヶ城 美作市北山 城主不詳。尼子氏の城。技巧的な縄張り。
11 比久尼城 勝田郡奈義町中島東 昔、比丘尼が居住。尼子氏の陣。
12 比丘尼城・比丘尼ヶ城[下原城] 鏡野町久田下原 城主不詳。発掘調査実施。室町時代前半の山城。
13 比丘尼ヶ城・びくにヶ城・ビクニガ城 鏡野町富西谷 土豪層の持城。
14 比丘尼城[国富城] 岡山市中区国富 城主は国富左衛門佐・国富源左衛門。
15 尼子城・尼ヶ城 井原市美星町星田 城主不詳。尼子家臣が拠る。

山城分布
図1 岡山県内の呼び名に「尼」がつく山城分布図(「比丘」を含む)

  • 現在の行政的区域と旧国の範囲は一部異なる。
  • No.4尼ヶ城の築城場所は未詳。

「調査員だより」第17号で触れているように、中世に築かれた城は当時の呼び名が分からないものが多く、現在の呼び名は江戸時代に著された軍記物や地誌などにもとづいています。

改めて、これらの城の故事来歴〈こじらいれき〉をみると、No.3比丘尼ヶ城やNo.4尼ヶ城のように因幡・伯耆に勢力を誇った山名時氏〈やまなときうじ〉らによって落城したとされるものがありますが、No.1尼城・比丘尼ヶ城(黒山城)、No.6比丘尼城、No.10尼ヶ城、No.11比久尼城などは、出雲の尼子〈あまご〉氏が占領あるいは攻略した城と伝わっています。つまり、城名の「尼」は、「尼子」に通ずるものが少なくないといえそうです。では、なぜ美作国の東部にこうした城の名前がまとまっているのでしょうか。

No.8比丘ヶ城(北西から)
No.8比丘ヶ城(北西から)

No.10尼ヶ城(北東から)
No.10尼ヶ城(北東から)

 16世紀中頃、美作国の多くの領主は尼子氏に服従していましたが、美作国東部にあたる吉野郡(美作市北部、西粟倉村及び兵庫県佐用町を含む一帯)では、竹山城(美作市下町)城主の新免宗貞〈しんめんむねさだ〉が播磨の置塩城〈おじおじょう〉(兵庫県姫路市)城主の赤松晴政〈あかまつはるまさ〉と与してこれらに抵抗したといわれます。この背景には、吉野郡に赤松氏とかかわりの深い人々が多かったことが挙げられます。

 しかし、その宗貞も、尼子氏の家臣で倉敷[林野]城(美作市林野)城主の江見久盛〈えみひさもり〉や三星城〈みつぼしじょう〉(美作市明見・入田)城主の後藤勝基〈ごとうかつもと〉らに攻められて所領を失っていき、勢力も次第に衰えていきました。

 こうした動きから美作国東部に「尼」がつく名前の城がまとまる理由を考えてみると、吉野郡内とその周辺で起きた尼子勢との戦いが他地域以上に激しかったために、「あれは尼子に攻略された城で…」などといった伝承が、深く根付いていったからなのかもしれません。もちろん、史実としてこれらすべての城が尼子氏と関わりがあったとは限りません。

 なお、在地の領主達が再び勢力を回復するのは、永禄3(1560)年に尼子晴久〈あまごはるひさ〉が死去し、永禄8(1565)年に安芸の毛利元就〈もうりもとなり〉が尼子氏本拠の月山富田城〈がっさんとだじょう〉(島根県安来市)を包囲した前後からであり、その後は、浦上宗景〈うらがみむねかげ〉そして宇喜多直家〈うきたなおいえ〉とのつながりが深まっていきます。(S)

参考文献・資料

岡山市役所 『岡山市史』第二 岡山市 1936
吉田研一 『備中誌』上編復刻 日本文教出版1972
正木輝雄・矢吹正則 『新訂作陽誌』復刻再版一~八 作陽新報社 1975
『美作古城記』(著者・成立年代未詳)〔新編吉備叢書刊行会 『新編吉備叢書』第一巻 歴史図書社 1976所収〕
葛原克人ほか 「岡山県」『日本城郭大系13 広島・岡山』 新人物往来社 1980
富村史編纂委員会 『富村史』 富村 1989
長谷川博史 「尼子氏直臣河副久盛と美作倉敷江見久盛」『岡山県地域の戦国時代史研究』広島大学文学部紀要五五巻特輯号二 広島大学文学部1995
岡山県古代吉備文化財センター 『改訂 岡山県遺跡地図』第一~六分冊 岡山県教育委員会 2003
大原町史編集委員会 『大原町史』通史編 美作市 2008
「美作国の山城」編集委員会 『美作国の山城』改定版 津山市教育委員会生涯学習部文化課 2011
畑和良 『落穂ひろい』 http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/index.htm

第22号

調査員を悩ます縄張り図の「ケバ」表現

 真夏を思わせる日差しの強さと山中の蒸し暑さ、生長して調査員の動きや視野を妨げる草木、さらにはその葉に隠れてうごめくマダニ等々。さすがにこうした調査環境に限界を感じ、6月24日の美作市尾越城跡の調査を最後に前半期の現地調査を終了しました。

 9月の調査再開までの7月と8月の2か月間は、4月以降現地を歩き描いた城の縄張り図の清書や写真整理、報告書の割付、原稿執筆等の作業を行いました。

 ところで、この整理作業で調査員を悩ます作業の一つに縄張り図の清書があります。現地では調査員が分担して城館の曲輪〈くるわ〉や堀切〈ほりきり〉等の平面的な配置を描きますが、報告書に仕上げるためにはこれを一枚の図に仕上げる必要があります。

 縄張り図は、地域の歴史を知る資料として城の情報をできる限り盛り込み、また現地を訪れたことがない方でも、一見して城館の特徴を理解できる見やすい図であることが求められます。問題は、高低差の著しい山頂を中心に連続する曲輪やその周囲に盛られた土塁〈どるい〉、尾根筋を遮断する堀切、さらには城の出入り口である虎口〈こぐち〉等々、城の造成のあり方が分かるように、またそれらの配置を如何に実状に合わせて表現するかです。

 縄張り図は曲輪等の輪郭線から傾斜方向に線(けば)を引き、これを駆使して城館全体のあり方をリアルに表現することができるので、大変有効な図といえます。この「ケバ」については、平成25年に文化庁文化財部記念物課が刊行した『発掘調査のてびき―各種遺跡調査編―』で、斜面の急な所と緩やかな所では線の長さや間隔を変えて引くことが原則とされています。しかし、城によっては曲輪や土塁等を多用した城づくりのあり方は様々で、その斜面の様子を一本の線で上から下まで描くのか、あるいはこの間を複数の線を繋いで描くのか、その都度迷うところです。

 吉備中央町の野山城〈のやまじょう〉跡(写真・図)の場合、城は比較的緩やかな山頂にあって、頂部を若干下がった場所を鉢巻き状に5~10mの幅で削平し、その際に排出された土砂を中央に高さ7mまでに高く掻き上げ、頂上削平土と合わせて65×30~50mの規模に造成していました。城の特徴が中央部のこの中心曲輪を形成した高さ7mに及ぶ切岸〈きりぎし〉にあることから、図の表現として、人工造成面であるこの切岸の規模や範囲が分かるように「ケバ」は曲輪の肩から下端まで一本の線で描いています。一方、鉢巻き状の削平により造りだされた中央部周辺を廻る帯曲輪〈おびくるわ〉下方の自然面には、一部造成部分を除き曲輪造成土の堆積が見られなかったことから、肩から下方への「ケバ」線は短く表現しています。(A)

野山城跡帯曲輪と中心曲輪を護る高さ7mの切岸
野山城跡帯曲輪と中心曲輪を護る高さ7mの切岸

野山城跡縄張り図
野山城跡縄張り図

第21号

迫力満点の山城

 4月から開始した現地調査は、これまで美作市と西粟倉村を中心に実施してきました。美作市では、粟井氏の拠点であった淡相〈あわい〉城跡、たび重なる合戦の舞台となった小房〈おぶさ〉城跡、尼子氏や宇喜多氏に攻略された井内〈いのうち〉城跡、西粟倉村では、草刈氏や須々木氏が在城したという佐淵〈さぶち〉城跡、標高660mの山頂に築かれた黒山城跡など、名前もない城館跡を含めて50か所近くを訪れました。

  このうち、美作市粟井中にある淡相城跡は、日本原カンツリー倶楽部から北へのびる東西2筋の丘陵にまたがって築かれています。東側の丘陵が、堀切で切断した丘陵の先に不整形な曲輪を階段状に配しているのに対し、春日神社がある西側の丘陵は、方形を呈する主郭の周りに大規模な防御施設を設けているのが目を引きます。

  主郭を取り巻く切岸は急峻で、高さが9mもあります。その南側に設けられた堀切や西側に掘削された横堀はいずれも大規模で、主郭を守る堅固な防御線となっています。さらに主郭の北側に配された曲輪は、西側の横堀へ向けて張り出すように土塁や櫓台が設けられており、西側から侵入する敵を多方向から攻撃するための工夫が見られます。このように、淡相城跡に見られる防御施設はいずれも大規模かつ複雑な構造で、これまで調査した城跡の中でも特に印象深いものとなりました。

 城跡近くの春日神社では、毎年10月、美作市の重要無形民俗文化財に指定されている粟井春日歌舞伎が奉納されます。お出かけの際はこの迫力満点の城跡まで、足をのばしてみてはいかがでしょう。(Y)

淡相城跡と歌舞伎芝居小屋の遠景(北から)
淡相城跡と歌舞伎舞台(北から)

主郭の南側を守る大きな堀切(西から)
主郭の南側を守る大きな堀切(西から)

主郭の西側に掘削された大規模な横堀(北東から)
主郭の西側に掘削された大規模な横堀(北東から)

第20号

中世城館跡総合調査も3年目を迎えました

 平成27年度は、岡山市の一部と美作地域から美作市・奈義町・西粟倉村・美咲町の調査を予定しています。その成果はこの「調査員だより」でも随時紹介しますのでご期待ください。

 さて、中世の美作国は山名・赤松・尼子・毛利・浦上・宇喜多氏らによる勢力争いの舞台となり、そうした乱世を生き抜いた地元領主たちによって築かれた城館も数多く残されています。

 4月下旬、いずれも美作市指定史跡である小原山王山城〈おはらさんのうさんじょう〉跡(美作市古町)と竹山城〈たけやまじょう〉跡(美作市下町)の現地調査を実施しました。小原山王山城跡は標高357m、高さ90mの山頂部に築かれた大規模な城域をもつ山城です。縄張りは主郭〈しゅかく〉から東西に延びる尾根に配された複数の曲輪〈くるわ〉群で構成されており、一部の曲輪では土塁〈どるい〉や横矢掛〈よこやかがり〉が認められ、各所の切岸〈きりぎし〉も高く急峻に仕上げられています。また、城域の中央付近には三重の深い堀切を設け、斜面部には畝状竪堀群〈うねじょうたてぼりぐん〉を掘削して堅固な防御を敷いています。この城は南北朝時代には存在していたようですが、戦国時代末期まで積極的に改修が加えられたようです。

小原山王山城跡の遠景(竹山城跡から)
小原山王山城跡の遠景(竹山城跡から

小原山王山城跡での調査風景
小原山王山城跡での調査風景

 一方、竹山城跡は標高410m、高さ200mの山頂を中心に築かれた山城で、「本丸」・「太鼓丸」・「西の丸」・「馬場」などと呼ばれる大小十数か所の曲輪により構成されています。また、ここから約300m西には、「坊主ヶ丸」と呼ばれる曲輪が築かれ、その南・北側には堀切が設けられています。さらに、ここから約200m南の尾根頂部にも、曲輪状の平坦地があります。『太平記』に登場するこの城は、明応2(1493)年に新免貞重〈しんめんさだしげ〉が入城しましたが、慶長5(1600)年には宇喜多勢として戦った新免宗貴が筑前国に移り、廃城となったとされています。

竹山城跡の遠景
竹山城跡の遠景

竹山城跡の「本城」
竹山城跡の「本城」

 ここで興味深いのは、新免貞重が竹山城に入るまで小原山王山城に居城していたことです。この城は集落や因幡街道にも近く、平時であるならば好立地の城であったといえますが、築かれた丘陵の高さや斜面勾配を考えると、防御力はやや低いように感じられます。加えて、広い城域を守り通すことは、城主にとってかなりの負担であったに違いありません。

 こうしたこともあり、貞重は南西に約2km離れた天然の要害ともいえる竹山の山頂に城を移そうと考えたのではないでしょうか。現在、竹山城跡には頂上まで自動車で登ることができ、山頂からは眼下に小原山王山城跡も一望できます。周囲の眺望もたいへんすぐれており、気候のよい時期に訪れてみてはいかがでしょうか。

 なお、今年度の担当者は、昨年度に引き続いて担当する岡山県南出身のSと山陰出身のY、そして、新たに岡山県北出身のAを加えた3名です。どうぞよろしくお願いします。(S)

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