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お玉ヶ池種痘所跡

お玉ヶ池種痘所(千代田区岩本町)

 東京、神田岩本町の交差点付近に、「お玉ヶ池種痘所記念」という碑が建っている。1858(安政5)年に設立されたこの施設こそ、わが国の医学界をリードする東京大学医学部発祥の地である。そしてこの施設の創立には、津山出身の蘭方医、箕作阮甫(みつくり げんぽ)が深くかかわっている。
 「お玉ヶ池種痘所」は、天然痘予防の画期的手法として蘭学者を通じて導入された「種痘」を組織的に実施するための施設として江戸で初めて開設したものである。蘭方医と漢方医の対立も激しかった当時、開設には非常な困難が伴ったが、箕作阮甫をはじめ、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけにより、私立の施設として、開設にこぎつけることができたという。その中でも箕作阮甫は、連名帳の筆頭に名を記しており、主導的な役割を担ったといわれている。
 種痘所はわずか半年後に火事の類焼のため別の地に移った後、官立お玉ヶ池種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校と改称されながら、種痘だけでなく西洋医学研究の場へと発展してゆき、1877(明治10)年の東京大学創設時に医学部となり現在にいたっている。
 箕作阮甫は、同じ津山藩医の宇田川玄真の門下生であり、蘭方医としてだけでなく、語学、西洋史、兵学、宗教学など広範囲にわたり洋学を修め各方面で活躍している。ペリー来航時には米大統領国書の翻訳にあたったことでも知られている。
 箕作阮甫以外にも、宇田川榕菴、宇田川玄随、宇田川玄真、箕作秋坪など、数多くの津山出身の洋学者たちが幕末期に活躍し、我が国の医学や近代化に多大な貢献をしている。
 2010年3月、津山市に「津山洋学資料館」がリニューアルオープンし、彼ら洋学者たちの数多くの事蹟の紹介や関連資料の展示を行っている。資料館の前庭を飾っているのは、箕作阮甫をはじめ、「津山洋学五峰」と呼ばれる彼ら5名のブロンズ像である。
種痘所記念碑1
種痘所記念碑2

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