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標点 平成22年11月号(通巻734号)
富士登山 県教育庁教育次長 増本 好孝 | |
今夏、思いがけず富士山に登った。中学校の大山登山以来、ほぼ四十年ぶりの山登りだった。酒席の放言がきっかけで、トントン拍子に段取りが固められてしまったので、後に引けなくなったというのが正直なところだが、それでも、登山靴を買って、猛暑のさなか龍ノ口や操山で練習して臨んだのであるから、我ながらいじましいものだ。 山登りの爽快さは、一歩一歩進んでいけば確実に高度が上がっていくところにある、と思う。目的と手段が明快なのだ。単調で苦しいけれども努力の結果がはっきりと見えるのもいい。一方、日常では無駄な努力に終わることは茶飯だし、目的自体が不明瞭、手段に至ってはそれこそ山で見える星の数ほどあるというのが通例だ。つい、とりあえず見栄えのするものを、とか、とりあえず無難なところから手をつけよう、と易きに流されてしまう。とかくこの世は難しい、と、登りながら考えているうちに九合目の山小屋に着いた。明日は暗い内に発(た)って御来光を拝む。 同じ日の出なのだが、日本で一番高い所だと荘厳さの格が違う。広い山頂いっぱいに人がいて、全員寒さに耐えながら東を向いて、雲の端が少し明るくなって、紫がかったオレンジ色と空の濃い青とのコントラストが段々鮮明になってくるのを見守っている。光がスッと差し込んでくると思わず万歳しそうになる。コツコツと努力を継続しよう、目標をしっかりと見据えて、とりあえず云々(うんぬん)はもうやめよう、手を合わせながら心から思う。 下山はただ足が痛いだけだ。無事に戻るのが一番の目標と理解していても、些末(さまつ)な事後処理に思えてしまう。山頂での思いも高度とともにしぼんでいく。下界の食堂で「とりあえずビール」と言ったとき雲散霧消してしまった。 涼しくなって、天気の良い休日には近くの山に登っている。思いがけずいい趣味をもらったと、引率いただいた方々に深く感謝している。この歳で言うのも気恥ずかしいが、新しい世界はいろんなところにあるのに気づかないだけなんだな、やっぱりチャレンジすることが大切なんだな、としみじみ思っている。 |