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和気清麻呂像(千代田区大手町大手壕端)佐藤 清蔵 作

印刷ページ表示 ページ番号:0029246 2009年3月27日更新東京事務所

和気清麻呂像(千代田区大手町大手壕端)佐藤 清蔵 作

 道鏡の野望を打ち砕いて皇統を護った忠臣として知られている和気清麻呂は、733年、備前国藤野郡(現在の岡山県和気郡和気町)の郡司の家に生まれ、そののち奈良の都に出て、近衛府の武官として朝廷に仕えた。
 769年、清麻呂が近衛将監の時、宇佐八幡神託事件(道鏡事件)が起こった。仏教政治の波に乗って僧道鏡は政界に入り、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の特別深い寵愛を得て太政大臣禅師、ついで法王となった。事件の発端は、九州太宰府の主神習宜阿曽麻呂が朝廷にもたらした宇佐八幡の御告げ(神託)で、「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる。」というものであった。このため政局は混乱し、結局神意を直接聞くための使いを出すということとなり清麻呂が選ばれた。宇佐から帰った清麻呂は、先の御告げとは全く反対の内容を神意として言上したため、名を変えられ九州の大隅へ流罪となった。1年後天皇は没し、道鏡は下野薬師寺別当に下降され、清麻呂は流罪を解かれた。
 道鏡事件は当時の政治の混乱を最もよく象徴した事件であり、この後、光仁・桓武・平城天皇の時代には政治の改革が図られることとなった。中でも、桓武天皇は清麻呂の奏請により都を京都へ遷し、崩壊しかけていた律令政治の立て直しを図った。清麻呂は、天皇に重く用いられ、摂津大夫、民部大輔、中宮大夫、造宮大夫、民部卿など朝廷の要職を務めた。
 皇居平川門近くの大手壕端、気象庁の前、地下鉄東西線竹橋駅のすぐ近くに高さ4m20cmの清麻呂像がそびえている。清麻呂が宇佐神託を復奏するため宮中に登る姿で、正々堂々たる気品に満ち、数多い清麻呂の像の中で最も有名である。
和気清麻呂像(千代田区大手町大手壕端)佐藤清蔵 作
 この像は、昭和15年に皇紀2600年を記念して、大日本護王会と清麻呂公銅像建設期成会が銅像作成を計画し、当時の我が国を代表する彫刻家であった朝倉文夫、北村西望、佐藤清蔵の三氏に作成を依頼した。しかし、事前説明の不備から三者による競作と知らなかった朝倉文夫は原型を仕上げた段階で辞退し、結局佐藤清蔵の作品が選ばれた。
 皇居平川門近くの大手壕端、気象庁の前、地下鉄東西線竹橋駅のすぐ近くに高さ4m20cmの清麻呂像がそびえている。清麻呂が宇佐神託を復奏するため宮中に登る姿で、正々堂々たる気品に満ち、数多い清麻呂の像の中で最も有名である。
岡山県和気郡和気町芳嵐園内 朝倉文夫 作
 この朝倉文夫の石膏像は、橿原神宮に献納され、戦後は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館で所蔵されていたが、昭和59年に清麻呂生誕1250年を記念して、和気町が譲り受け、郷土のシンボルとすべく銅像にし、和気神社の外苑芳嵐園に建立されている。