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「内田百間」ゆかりの地

印刷ページ表示 ページ番号:0029245 2009年3月27日更新東京事務所

「内田百間」ゆかりの地

 文京区の根津神社西側、弥生一番地。この辺りに、小説家・随想家、内田百間(間の字は、門がまえに月)が岡山から上京して学生時代を過ごした頃の下宿があった。後に妻となる清子さんへの恋心が再燃し、募る想いを秘めて百間らしい面白おかしい表現を使い、手紙をしたためていた頃にあたる。きっと、ここ根津神社界隈は、青春時代の甘い思い出がいっぱいつまったところだろう。
 内田百間。非常に頑固偏屈で無愛想である一方、茶目っ気とユーモアにあふれた人物としても知られている。
 百間は、明治22年(1889)、岡山市古京町の造り酒屋「志保屋」の一人息子として生まれた。鉄道や琴、書や俳句に夢中となり、恵まれた少年時代を過ごした。中学時代から、物事をつぶさに観察してその内面までも描くという写生文に優れ、地元新聞などにも投稿し、何度も掲載された。また当時、夏目漱石の「吾輩は猫である」が刊行され、その初版をいち早く入手し、とても大切に読んだと言われる。次第に漱石への傾倒を深め、六高時代には、自作の「老猫物語」を漱石に送り、物語として通読するには工夫も必要だが、観察眼や書き方は良いという評をもらった。その後、東京帝国大学在学中に、夏目漱石の門下生となった。百間にとって漱石は「絶対的な」存在であった。
 大学卒業を前にして、少年時代からの初恋を実らせ、明治45年に清子さんと結婚。二男三女にも恵まれた。
 大学卒業後、陸軍士官学校、法政大学のドイツ語教師として勤めたが、昭和9年、45歳の時に全ての教職を退き、文筆活動に専念する。その後、昭和14年から6年間、日本郵船(株)に嘱託として入社、文章の指南役を務めた。59歳の時に、「三畳御殿」と称した三畳を一列に三つ並べた小さな家に移り(千代田区麹町六番町)、以後の作品を書き続けた。
 還暦を迎えた翌年から教え子や主治医を中心メンバーとして毎年「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生日会が開かれた。これは、還暦を祝ったのにまだ成仏しないのか、即ち「まあだかい」に由来するもの。百間のユーモアを垣間見ることができるエピソードだ。黒澤明監督による映画「まあだだよ」はこの時期を映画化したものだ。76歳の時に、清子夫人の死後、身の回りの世話をしてきた佐藤こひさんと入籍。昭和46年(1971)4月20日、享年82歳の生涯を閉じる。遺言により、葬儀・告別式は、教え子が住職を務めていた金剛寺(中野区上高田)で行われた。百間のお墓の傍らには、こひさんのお墓と「木蓮や堀の外吹く俄風」の句碑が建っている。
(資料提供:(財)岡山県郷土文化財団)
根津神社
内田百間の写真