ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 総合政策局 > 東京事務所 > 生誕200年を迎える「山田方谷」ゆかりの地

本文

生誕200年を迎える「山田方谷」ゆかりの地

印刷ページ表示 ページ番号:0029243 2009年3月27日更新東京事務所

生誕200年を迎える「山田方谷」ゆかりの地

 山田方谷は、徳川幕府最後の老中として将軍慶喜を補佐した備中松山藩主板倉勝静のブレーンで、見事に藩政改革を成し遂げた陽明学者にして財政家、教育者である。
 文化2(1805)年、備中松山藩(現在の高梁市)の農商の家に生まれ、幼少より神童の誉れ高く、新見藩の儒学者丸川松隠に学んだ後、京都で学び、さらに江戸の佐藤一斎塾に入門、佐久間象山らと研鑽を積み、陽明学を極めた。
 嘉永2(1849)年に板倉勝静が藩主となると、藩の財政責任者に就任した。方谷45歳のときである。人生50年の当時、普通なら隠居するときだが、藩政改革を断行できるのは方谷以外にいないと見定めた勝静の執拗な説得により、方谷は受諾したと言われている。上下節約、負債整理、藩札刷新、産業振興などの藩政改革に取り組み、僅か8年で10万両の借金を抱えた貧乏藩を十万両の蓄財と最新式の近代装備を備えた軍事力を有する富国強兵藩に変え、全国一と言ってよいほどの成果を上げた。方谷の行った改革は、ただ単に財政を立て直しただけではなく、産業を興し、文武を奨励して人心を奮い立たせるという、スケールの大きなものであった。その根底にあったのは「下方潤沢(領民を豊かにする)」「撫育(領民を幸せにする)」という理念であった。
 明治維新後は明治政府からの度重なる出仕要請を固辞し、長瀬(現在の高梁市中井町)、小阪部(現在の大佐町)で子弟の教育に専念した。閑谷学校の再建にも尽力し、明治10 (1877)年に73歳の生涯を閉じた。
 生誕200周年にあたる来年にかけて、生誕地高梁市や大佐町では色々なイベントが計画されている。
板倉勝静が祠官を勤めた上野東照宮
山田方谷像(高梁方谷会 蔵)