本文
ももたろうの防災(本編)1・2ページ被災者の声
被災者の声
以前購入していた携帯用のバッテリーが今の携帯電話に対応していなかった。
40年住んでいるが、今回の水害でこんなに大きな被害になるとは思いもしなかった。防災無線はまったく聞こえなかった。
避難所に同じ支援物資がたくさん届き、食べ物を腐らすこともあった。
水道が止まったが、お風呂に水が残っていたのでしばらく助かった。
空き巣の被害にあった。治安が極度に悪化するので、戸締まりの確認や定期的な見回りをするべきだった。
避難所の小学校で校長先生が卒業生を応援に呼んだり、トイレの使い方を決めたりしていた。
避難所でのリーダーの大切さを感じた。
トイレが水洗のため断水で使用できなくなり、屋外に穴を掘って排便をした。
髪が洗えないことが予想以上に苦痛だった。寒い時期だったのでお風呂で暖まれないことも辛かった。
自衛隊の方々による食事の準備は非常に早かったが、それをもらうのに1~2時間立って並んだ。
ガソリンを手に入れるのに苦労した。普段から早めに給油したり、ガソリンスタンドの場所を確認しておくことが大切と感じた。
一旦避難したのに、忘れ物を取りに帰って津波に飲まれた方がいた。警報が解除されるまで、絶対に戻ってはいけない。
水が貴重だったので、トイレにいくのをかなり我慢した。体は濡れタオルで拭き、歯も歯磨き粉を使わずに磨いた。
電気がないと生活の基本が全くできないと痛感した。電気が復旧したときが一番うれしかった。
災害対策に十分や万全はないと思う。いつ、なんどき、何が起こっても大丈夫だという覚悟を持って生活することが大切だと感じた。他の人や物に頼ることも時には必要だが、まず自分自身がそういう覚悟をしているかで、有事の行動を左右すると思う。
準備していた非常持出袋を押し入れの奥にしまっていたため、地震発生時に取り出す余裕がなかった。
水汲みに初日1時間、2日目3時間待ち。寒くて死にそうだった。しかもポリタンクを持っていなかったので、ペットボトル2~3本しか確保できなかった。
準備していた食糧を子供がまったく食べてくれず困った。
避難所で子供が泣くので、他の方に申し訳なく、車の中で過ごした。
震災前は挨拶程度だった近所の方々と、震災直後からは助け合い、辛い状況を乗りこえることができた。地域のつながりの大切さを感じた。
飲み物が家の冷蔵庫にあったボトル2~3本だけで、それを2日間に分けて飲んだ。自衛隊の給水が始まったのは、3日目からだった。
学校と連絡がつかず、子供が学校にいるのか、下校途中なのか、様子が分からなくなった。
車いすのため、移動する際に道が寸断されていて、通れる道を探すのが大変だった。避難所も車いすを使用している人間には非常に不便だった。
携帯電話の電池が切れ、バッテリーも持っていなかったので、連絡のためのアドレスが見れず、連絡を取れなかった。
夜に帰宅した時、停電になっていて真っ暗だった。カギに付けていたミニ懐中電灯のキーホルダーが役に立った。
避難して車中泊していた。ラジオやワンセグはついたけれど、被害の全容がわからなかった。ライオンが逃げたとか、ショッピングモールが燃えているとか、デマも流れていた。
子供のオムツがなくて不安だった。近くのスーパーに5時間並んでやっと手に入れた。
岡山は災害の少ない県だと思い、他県で被害があるのを他人事のように見ていたが、自分が被災し、初めてその大変さを知った。
避難指示が出た時は、まだ水害が発生するとは思ってなかった。河川の土手が決壊したということがわかっていたら、早く避難していたと思う。
以前購入していた携帯用のバッテリーが今の携帯電話に対応していなかった。
40年住んでいるが、今回の水害でこんなに大きな被害になるとは思いもしなかった。防災無線はまったく聞こえなかった。
避難所に同じ支援物資がたくさん届き、食べ物を腐らすこともあった。
水道が止まったが、お風呂に水が残っていたのでしばらく助かった。
空き巣の被害にあった。治安が極度に悪化するので、戸締まりの確認や定期的な見回りをするべきだった。
避難所の小学校で校長先生が卒業生を応援に呼んだり、トイレの使い方を決めたりしていた。
避難所でのリーダーの大切さを感じた。
トイレが水洗のため断水で使用できなくなり、屋外に穴を掘って排便をした。
髪が洗えないことが予想以上に苦痛だった。寒い時期だったのでお風呂で暖まれないことも辛かった。
自衛隊の方々による食事の準備は非常に早かったが、それをもらうのに1~2時間立って並んだ。
ガソリンを手に入れるのに苦労した。普段から早めに給油したり、ガソリンスタンドの場所を確認しておくことが大切と感じた。
一旦避難したのに、忘れ物を取りに帰って津波に飲まれた方がいた。警報が解除されるまで、絶対に戻ってはいけない。
水が貴重だったので、トイレにいくのをかなり我慢した。体は濡れタオルで拭き、歯も歯磨き粉を使わずに磨いた。
電気がないと生活の基本が全くできないと痛感した。電気が復旧したときが一番うれしかった。
災害対策に十分や万全はないと思う。いつ、なんどき、何が起こっても大丈夫だという覚悟を持って生活することが大切だと感じた。他の人や物に頼ることも時には必要だが、まず自分自身がそういう覚悟をしているかで、有事の行動を左右すると思う。
準備していた非常持出袋を押し入れの奥にしまっていたため、地震発生時に取り出す余裕がなかった。
水汲みに初日1時間、2日目3時間待ち。寒くて死にそうだった。しかもポリタンクを持っていなかったので、ペットボトル2~3本しか確保できなかった。
準備していた食糧を子供がまったく食べてくれず困った。
避難所で子供が泣くので、他の方に申し訳なく、車の中で過ごした。
震災前は挨拶程度だった近所の方々と、震災直後からは助け合い、辛い状況を乗りこえることができた。地域のつながりの大切さを感じた。
飲み物が家の冷蔵庫にあったボトル2~3本だけで、それを2日間に分けて飲んだ。自衛隊の給水が始まったのは、3日目からだった。
学校と連絡がつかず、子供が学校にいるのか、下校途中なのか、様子が分からなくなった。
車いすのため、移動する際に道が寸断されていて、通れる道を探すのが大変だった。避難所も車いすを使用している人間には非常に不便だった。
携帯電話の電池が切れ、バッテリーも持っていなかったので、連絡のためのアドレスが見れず、連絡を取れなかった。
夜に帰宅した時、停電になっていて真っ暗だった。カギに付けていたミニ懐中電灯のキーホルダーが役に立った。
避難して車中泊していた。ラジオやワンセグはついたけれど、被害の全容がわからなかった。ライオンが逃げたとか、ショッピングモールが燃えているとか、デマも流れていた。
子供のオムツがなくて不安だった。近くのスーパーに5時間並んでやっと手に入れた。
岡山は災害の少ない県だと思い、他県で被害があるのを他人事のように見ていたが、自分が被災し、初めてその大変さを知った。
避難指示が出た時は、まだ水害が発生するとは思ってなかった。河川の土手が決壊したということがわかっていたら、早く避難していたと思う。