昨年秋の京山祭の時、小学生の息子を連れて久々に池田動物園を訪れた。自分が小学校の時に心を震わせたライオンの野生の雄叫びを見せ、「さすが実物は違うだろう。」そう言いたくて、動物園の門をくぐった。しかし、ライオンの檻の前に立って私も息子も愕然とした。「ライオンは、ストレスのため、たてがみが抜けています。」という掲示板の横に元気のないライオンが寝そべっていた。動物園という環境の中で、本来持っている野生を失った百獣の王が不憫でならなかった。 若い頃に出会い、御自宅まで押し掛けて多くの教えを受けた広島県の教員故八ッ塚実先生が、かつてこんな話を紹介されていたのを思い出した。先生が、北海道で人慣れしていないキタキツネに出会い、あまりの可愛さに近づいて餌をやろうとしたら、そばにいた地元の友人が、ものも言わずに近づき、キツネの横腹を思い切り蹴飛ばした。「何という残酷なことを。」二人はお互いにそう叫んだ。理由を聞いてみると、その友人は、「十年前、キツネの餌付けに取り組んだ結果、大自然から獲物を獲得する努力をせず、人間から餌をもらうようになり、結果的にキツネを死なせてしまった。私が殺したんだ。」と話してくれたそうだ。 この話に出会い、当時私は自分の学校での仕事ぶりと重ね合わせて、大いに反省したのを今でも覚えている。動物にとって、餌を取る力は必要不可欠であり、それはまさに「生きる力」を身につけることである。私は、多くのことを教えているが、それがどれだけ「生きる力」として、子どもたちの身につき、世の中を生き抜いていくために使われるだろうか。餌付けされた野生動物のように、待っていれば知識や情報が与えられ、自ら生きる力を身につけようとしない「野生」を失った子どもたちにしてしまってはいないだろうか。その自問自答は、今でも私の中で繰り返されている。 生徒指導上の多くの問題に接する中で、教育における「優しさ」と「厳しさ」を、決して間違ってはいけないと私は常々思っている。「厳しさ」の中に本当の「優しさ」があることも多い。準備よく子どもたちに与えるより、苦労して掴みとらせることの方が大切な場面はたくさんある。間違っても学校や教員の都合で、子どもたちの貴重な体験の場を奪ってはならないし、苦しくても子どもたちの力がつくまで待てる粘り強さが教員には必要である。奇しくも世の中では、「ワイルドだろ」が流行らしいが、野生動物のように自ら生きぬく力を身につけた、たくましい子どもたちを育てることが、今教育に求められていると私は思う。 |