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常山城跡

更新日:2019年9月25日更新

常山〈つねやま〉城跡 岡山市南区迫川、玉野市宇藤木・用吉・木目

 今回は、岡山県の児島半島にある常山城跡を紹介します。

 児島は、その名前のとおりに近世初頭までは巨大な「島」であり、中世には『兵庫北関入船納帳〈ひょうごきたせきいりふねのうちょう〉』(註1)に記された連島・下津井・宇野・番田・阿津・郡・八浜などの船籍地や、下津井・日比を中心とする停泊港などから、瀬戸内海交通・流通の要地であったと考えられます。そのため、備前・備中・安芸・讃岐・阿波・伊予などに本拠を構えた武将たちが、この地の支配を巡ってせめぎあっていました。

 常山城が所在している常山は、児島で金甲山、怒塚山に続き3番目に高く、「児島富士」とも呼ばれるほぼ独立した山容を呈し、児島の中央部に所在していることや、山頂から足下の「吉備の穴海」はもとより、北の岡山平野や南の備讃瀬戸の島々、さらに四国まで一望する視認性の良さから、城の立地として最適な場所といえます。

常山城跡遠景(南東から)
常山城跡遠景(南東から)

常山城縄張り図模式図 岡山県教育委員会「常山城跡発掘調査報告」『岡山県埋蔵文化財報告』10

 常山城縄張り図模式図岡山県教育委員会「常山城跡発掘調査報告」『岡山県埋蔵文化財報告』10

 この城は、上野〈うえの〉氏が応仁の乱の頃に築いたと伝えられますが、定かではありません。この城をめぐる争いでは、備中兵乱(註2)の際に、三村元親〈みむらもとちか〉の妹婿である上野隆徳〈たかのり〉と毛利〈もうり〉氏が戦った天正3年(1575)の常山合戦が有名です。隆徳の妻とその侍女(女軍)の奮戦や落城の様子が今も伝わっています。

 天正11年(1583)の「中国国分け」(註3)の後、宇喜多〈うきた〉氏家臣の戸川〈とがわ〉氏が城主(城番)となりますが(註4)、関ヶ原の合戦で敗れた宇喜多氏にかわって備前国に入封した小早川〈こばやかわ〉氏は、家臣の伊岐〈いき〉氏を城主(城将)としました。慶長7年(1602)に小早川秀秋が嗣子なく没すると、備前国に入った池田〈いけだ〉氏は下津井城を整備してこの城を廃します。

 城は、標高約300mの常山山頂に「本丸」を配し、そこから北及び北東に延びる2つの尾根筋に曲輪を連続して築いている連郭式の山城です。城域は約350×300mを測り、備前国内でも屈指の規模を誇ります。駐車場や無線中継所などによる改変が認められますが、比較的良好に保存されています。特徴としては、「惣門丸」(約60×20m)に代表される長大な各曲輪と、「本丸」・「兵庫丸」・「栂尾丸」・「惣門丸」などに築かれた織豊系城郭によく見られる石垣が挙げられます。南西側を除き高さ2~3mの石垣が巡る「本丸」や、約4mの高石垣がそびえる「兵庫丸」は一見の価値があります。そのほかに、「青木丸」北辺に築かれた櫓台や「矢竹二の丸」から南に延びる尾根筋にある堀切、さらに2つの尾根筋に挟まれた谷部にある「底無井戸」と呼ばれる井戸なども見応えがあります。

「本丸」(南から)
「本丸」(南から)

「本丸」に築かれた石垣(南西から)
「本丸」に築かれた石垣(南西から)

 現在残されているこれらの縄張りは、宇喜多氏が岡山城の軍事的な外構えを形成するため、さらに瀬戸内海路に関わる岡山の南口として整備したと考えられ、その際には瓦葺きの建物も建っていたようです。宇喜多氏以前の城の様子は不明ですが、宇喜多氏との間で戦われた天正10年(1580)の八浜合戦前に、毛利氏が城の普請を計画していたことを伝える文書が残されています(註5)。
 なお、「東二の丸」にある無線中継所を建設する際に、岡山県教育委員会が調査を行い、ややいびつな柱並びとなっている掘立柱建物跡が見つかっています。出土遺物には、備前焼や文禄年間頃に岡山城で使用されていた瓦と同じ文様を飾る瓦などがあり、城の改修・改築時期を知る貴重な資料となっています。

  1. 兵庫北関における文安2年(1445)正月から翌3年正月にかけての入船及び関銭賦課の記録台帳。船籍地、積載品目・数量などが記載されており、当時の流通の実態を伝える貴重な資料。
  2. 天正2年(1574)から翌3年(1575)にかけて行われた三村氏と毛利氏の合戦。
  3. 羽柴氏と毛利氏との間で交わされた国境線をめぐる協定。これによって高梁川以西を毛利領とすることが決まる。児島郡は、宇喜多氏の領国となる。
  4. 『備前軍記』などの軍記物では、常山合戦の後、毛利氏が宇喜多氏に常山城を与えたとされ、八浜合戦(軍記物では天正8年もしくは9年とされるが、現在では天正10年(1582)に起こったとされる)の時にも、宇喜多氏家臣の戸川平右衛門が城主と書かれているが、「中国国分け」まで毛利氏が城番を置いて支配していたようである。
  5. 穂田元清文書に「不日常山普請可申付存候」(『岡山県史』編年史料2284)とある。なお、県史では天正9年としているが、現在は天正10年の文書とされる。

参考文献

  • 吉備群書集成刊行会「兒島常山軍記」『吉備群書集成』第三輯(復刻版)作陽書房1988
  • 岡山県教育委員会「常山城跡発掘調査報告」『岡山県埋蔵文化財報告』10 1980
  • 柴田 一編著『新釈備前軍記』1980
  • 北村 章『備前児島と常山城』1994
  • 森 俊弘「年欠三月四日付け羽柴秀吉書状をめぐって-書状とその関係史料を再読して-」『岡山地方史研究』第100号 2003
  • 久世町史資料編編纂委員会『久世町史資料編』第一巻 編年史料 2004
  • 光成準治「高松城水攻め前夜の攻防と城郭・港」『倉敷の歴史』第18号 2008
  • 乗岡 実「宇喜多氏城郭群の瓦と石垣-岡山城支城群の諸段階-」『吉備地方文化研究』第18号 2008

常山城跡アクセスマップ
常山城跡アクセスマップ

登城ルート

  • 北麓にあるテニスコートの東側に門扉を設けた登り口があります。山道は整備されていますが、所々滑りやすい場所もあるので注意しましょう。また、門扉は開けたら必ず閉めましょう。
  • 所要時間は「本丸」まで30~40分程度です。
  • なお、以前は麓から「栂尾二の丸」まで車で登ることができましたが、現在は通行禁止となっています。

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