岡山県教育委員会は、岡山県文化財保護審議会の答申に基づき、平成18年3月17日付けで岡山県指定重要文化財等を新たに7件指定し、2人を追加認定しました。
番号 | 種別 | 名称 | 所在地等 | 所有者 |
1 | 重要文化財 古文書 | 法泉寺文書 附伊勢盛時禁制札 | 井原市西江原町 | 宗教法人法泉寺 |
2 | 重要文化財 工芸品 | 梵鐘 | 鏡野町馬場 | 宗教法人小田草神社 |
3 | 重要文化財 建造物 | 愛染寺鐘楼門及び仁王堂 | 津山市西寺町 | 宗教法人愛染寺 |
4 | 重要文化財 建造物 | 大瀧山福生寺仁王門 | 備前市大内 | 大瀧山福生寺 実相院・福壽院・西法院 |
5 | 史跡 | 矢筈城跡 附 伝草苅景継墓所 | 津山市加茂町山下・知和 | 津山市ほか |
6 | 天然記念物 | 奥迫川の桜 | 岡山市灘崎町奥迫川 | 個人 |
7 | 重要無形文化財 木工芸 | 小川一敏(雅号 一洋) | 岡山市 | |
8 | 重要無形文化財 木工芸 | 國本敏雄 | 真庭市 | |
9 | 重要無形民俗文化財 | 郷原漆器 | 真庭市蒜山上福田 | 真庭市蒜山上福田 |
法泉寺文書 附 伊勢盛時禁制札 | |
種別 | 重要文化財 古文書 | 員数 | 21通、附1面 | 所在地 | 井原市西江原町 | 所有者 | 宗教法人法泉寺 | 製作年代 | 嘉吉3年(1443)から永正14年(1517)ごろ | 概要 | 長谷山法泉寺は、もともと宝泉寺と称した禅寺を、備中国荏原郷の領主伊勢盛定が永享2年(1430)に丹波から古かん仁泉を招いて曹洞宗の寺院として開いたと伝えられ、伊勢氏の庇護を受けながら、備中南部の曹洞宗発展の一翼を担った。 寺に伝わる文書は、所盛経の寺領寄進状をはじめ、土地売券など寺領に関するもの、開山の古かん仁泉及びその後継者関叟梵機の置文など寺の規範に関するもの、備中守護細川氏の発した文書などからなっている。 寺領に関するものでは、伊勢氏や当地近辺に在住していた伊勢氏の被官の武士の名前が分かる。 文書の中の1通に、後に関東で戦国大名後北条氏の祖となった北条早雲が若き時代に差し出したと考えられる禁制(伊勢盛時禁制)も含まれ、早雲の備中出自説の根拠となる文書として全国に知られている。 なお、その禁制の内容を広く告知するため、同禁制を書写した木札が残されており、県内に伝存する禁制札の古例としても注目される。 |
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梵鐘 | |
種別 | 重要文化財 工芸品 | 員数 | 1口 | 所在地 | 鏡野町馬場 | 所有者 | 宗教法人小田草神社 | 寸法 | 鐘身高69.8cm、竜頭高13.9cm、口径51.9cm(外径) | 製作年代 | 貞治7年(1368) | 概 要 | 小田草神社は小田草山麓に鎮座し、かつてこの山には小田草城が築かれ、今も山城跡が見られる。 中世、当社は美作国野介荘の総鎮守であったといわれ、『作陽誌』は同国西西条郡のうち布施神社、高野神社に次ぐ古社と位置づけている。 鐘は、口径に比して上帯径が小さく、竜頭は双竜が棒立ち風につくり、彫りの深いものである。乳は柄の小さい茸形、池の間に陰刻の銘がある。撞座の蓮華文は八葉素弁に雄蘂帯があり、中房に八顆の蓮子を含む。 撞座文は津山市安国寺の梵鐘(岡山県指定重要文化財)の撞座文と似ており、同系統の鋳物師作と推測されている。 銘文から、野介荘に勢力を振るった齋藤二郎が願主として、天長地久、御願円満、庄内安穏、万民与楽などを祈願して製作されたものと知られる。 陰刻の「小田草城主」の文字については、他の文字と筆致が異なり、明治年間に追記されたとの伝えが地元にある。 『作陽誌』によれば、延宝5年(1677)に土中から発見されたというが、本来の神社に伝来している点においても貴重である。 |
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愛染寺鐘楼門及び仁王堂 | |
種別 | 重要文化財 建造物 | 員数 | 1棟 | 所在地 | 津山市西寺町 | 所有者 | 宗教法人愛染寺 | 構造及び形式 | 鐘楼門:一間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 両脇仁王堂:桁行一間、梁間一間、唐破風造、檜皮葺 | 建築年代 | 正保元年(1644) | 概要 | 愛染寺は、もとは慶長10年(1605)に畠山快雲によって金剛寺として建立されたと伝わる真言宗寺院である。 津山藩主森家の庇護のもと、承応年間(1652~1655)までに諸堂が完成し、延宝年中(1673~1681)に愛染寺と名を改めた。 明治9年(1876)の火災で門などを除き、全焼したという。 全体の形態は、楼門の両脇に仁王堂が附属したものである。 基壇は切石の四半敷きとする。楼門は一間一戸楼門の形式で、下層は桁行一間梁間二間、上層は桁行三間梁間二間、入母屋造、檜皮葺である。 その下層両脇正面側の柱間に方一間の仁王堂が附属する。 仁王堂は左右とも同形式で、屋根は平側を正面に構える唐破風造、檜皮葺である。 建立年代に関しては、『愛染寺誌』(大正10年刊)に正保元年(1644)の造立を記した棟札がある。 この棟札は現在所在不明であるが、建物の様式に対応した年代であり、建立年代は鐘楼門、仁王堂ともに正保元年に建てられたものとしてよい。 その後の根本的な改造はなく、およそ当初の形態を保っている。 近年解体修理が行われ、平成15年度に竣工した。 この門は、鐘楼門の両脇に仁王堂が附属するという形式が珍しく、また下層柱を内転びにするなど細かい技術的工夫がこらされている。 城下町津山の西寺町を東西に走る旧出雲街道に面して建つ景観も好ましい。 江戸時代前期の津山における高い技術水準を示す建物である。 |
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大瀧山福生寺仁王門 附 元和九年銘施主札 | |
種別 | 重要文化財 建造物 | 員数 | 一棟、附:三枚 | 所在地 | 備前市大内 | 所有者 | 大瀧山福生寺 実相院・福壽院・西法院 | 構造及び形式 | 三間一戸八脚門、入母屋造、本瓦葺 | 建築年代 | 元和9年(1623) | 概要 | 寺伝によると、仁王門は三代将軍足利義満によって室町初期に本堂とともに建立されたとするが、「備前州和気郡大瀧山福生寺記」(元禄14年成立)によると、康正元年(1455)に戦火で福生寺の大半は焼失し、その後明応3年(1494)に本堂を再建しているから、門の再建はこれより後であろう。 天正19年銘の鬼瓦・丸瓦の存在から、このころに再建または何らかの工事が行われたと考えられる。 また内法長押に打たれていた元和9年(1623)銘の施主札及び使用された材の状況から、現在の門の建立年代は元和九年で、組物などに天正の材が残る可能性があると判断される。 構造形式は三間一戸八脚門で、屋根は入母屋造、本瓦葺である。 平面は中央間を通路とし、両脇間は板敷きとする。 軸部は円柱を地長押、足固貫、頭貫で固める。 組物は出三斗実肘木、中備は正面側が中央蟇股、両脇間斗束、両側面はなし、背面は三間とも間斗束、背面中央間の内側には蟇股を飾る。 軒は二軒繁垂木、妻の破風は縦板張である。 天井は猿頬天井とする。 従来、地長押が珍しいとされ、それより下の柱が切断されたと伝承されるが、他にも地長押をもつ門の例があり、また地長押より下には壁の痕跡などがないので、当初からこの形であったと考えられる。 この仁王門は、全体として当時の形態をよく残し、県下では数少ない17世紀前期の門として重要である。 |
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矢筈城跡 附 伝草苅景継墓所 | |
種別 | 史跡 | 所在地 | 津山市加茂町山下・知和 | 所有者 | 津山市ほか | 指定面積 | 約90万平方メートル | 概要 | 矢筈城跡は、鳥取県境に近い津山市加茂町山下・知和にそびえる標高756メートルの矢筈山に戦国時代に築かれていた山城跡である。 郭(曲輪)の西端から東端約1,600メートル、同北端から南端約500メートル、山頂と山麓の比高差約500メートルを有する。 本城は、山陰の尼子方として当地に入部した草苅衡継によって天文元~2年(1532~1533)にかけて築城された。 その後草苅氏は尼子氏の衰退に伴い毛利方についたため、宇喜多勢や羽柴秀吉によるたびたびの攻撃を受けながらも、難攻不落の城として一度も落城することがなかった。 城主は草苅景継・重継と受け継がれ、天正12年(1584)毛利輝元らの要請により重継が退城するまで、約50年間使用された。 主要な郭は、大手にあたる本丸、二の丸、三の丸、土蔵郭、馬場等を含む東側の郭群と搦手にあたる西側の成興寺丸と呼ばれる郭群、さらにこれに附属する小規模な郭で構成される。 山上には、成興寺丸付近の郭群を中心に石垣が点在し、二重・三重の堀切や土塁等の遺構も確認される。 また、山麓には、内構と呼ばれる城主の居館跡、二代目城主景継の墓と伝えられる石塔、城主一族にまつわる伝承を持つ若宮神社などがある。 県下でも最大級の規模を誇る縄張りを有しているとともに、築城及び廃城年代が確定でき、廃城後に使用されなかったため、16世紀後半の遺構がよく残されている点で、県内の中世山城の遺構として重要である。 |
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奥迫川の桜 | |
種別 | 天然記念物 | 員数 | 1株 | 所在地 | 岡山市灘崎町奥迫川 | 所有者 | 個人 | 品種及び樹齢 | バラ科、約300~500年(推定) | 大きさ | 根元周囲約8.5m、樹高約20m、枝張り約27m | 概 要 | このサクラは、岡山市灘崎町の陀娑山山麓の標高約150メートルの急斜面に生育しており、8本程度の株立ちとなっている。 樹高約20メートル、根元周囲約8.5メートルは、サクラの県下最大木の醍醐桜には及ばないものの、大きな幹の周囲は2メートルを超えており、県内でも指折りの大きさを誇り、開花時期には見事な花を咲かせている。 本樹は、枝葉・花の形態の比較により、エドヒガンとカスミザクラもしくはヤマザクラとの雑種と推定される。 平成11年以降、旧灘崎町教育委員会による調査研究が行われ、その学術的成果が得られるとともに、樹木医による治療が施された。 そのため、樹勢は盛んである。 県下の桜の巨木は、県の中部・北部に生育しているが、ほとんど巨木の生育していない南部の沿岸域における本樹木の存在は特筆に値する。 |
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小川一敏 (雅号 一洋) | |
種別 | 重要無形文化財 木工芸 | 保持者 | 小川一敏 (雅号 一洋) | 住所 | 岡山市 | 概要 | 小川氏は、15歳で指物師に弟子入りし、独立後、故難波仁斎(岡山県指定重要無形文化財保持者、漆芸)の下地製作等にかかわり、以来50年以上にわたり、木工芸一筋に取り組んで、研鑽を積み技法を磨いた。 氏は、木工芸の中でも、特に複雑多岐な技術的内容が集中する指物に卓越した技量を発揮し、異種、異質の木材を埋め込んで装飾効果を表現する象嵌手法を好んで用いた作品群は、抜群の技巧的冴えを見せている。 昭和57年に日本伝統工芸展に初入選して以来、現在までに15回の入選を果たし、その安定した技量は高い評価を得ており、昭和61年には日本工芸会の正会員となった。 平成13年には、氏の指物技術の記録保存報告書『木工芸 さしもの』(岡山市教育委員会等刊)が刊行され、そのなかで氏は技術の記録・公開に寄与するとともに、地元の中学校の課外授業で木工の基本を教えるなど、木工芸の保存、伝承や普及、啓発にも尽力している。 |
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國本敏雄 | |
種別 | 重要無形文化財 木工芸 | 保持者 | 國本敏雄 | 住所 | 真庭市 | 概要 | 國本氏は、昭和28年岡山県立津山職業補導所木工科(現県立津山高等技術専門校)を卒業後、家具製造会社に勤務した後、自宅で木工所を開業し家具・建具を製作しながら、真庭郡内の寺社の建具や彫刻に取り組み、技術の習得に努めた。 昭和59年からは故大野昭和齋(重要無形文化財保持者)に師事し、指物を中心とした木工芸技術及び拭漆による仕上げ法を学んだ。 氏は、木彩、象嵌、杢目沈金といった技法に高い技量を発揮し、確かな技術に裏打ちされた、繊細で緻密な作風を示し、また、常に新しい技術の習得に挑戦し、これまで日本伝統工芸展に16回(17作品)入選し、平成3年には日本工芸会正会員になった。また、平成七年に卓越技能者「現代の名工」労働大臣賞、平成12年に黄綬褒章などの受賞(章)歴を持つ。 また、平成16年からは日本工芸会中国支部幹事及び木竹工部会長を務め、一方、地元の木工愛好家やサークルの求めに応じて指導にあたるなど、伝統工芸の普及、発展にも尽力している。 |
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郷原漆器 | |
種別 | 重要無形民俗文化財 | 保持団体の名称 | 郷原漆器生産振興会 | 保持団体の住所 | 真庭市蒜山上福田 | 概要 | 郷原漆器は、岡山県北の蒜山地方の郷原に伝わった伝統的な工芸技術で、伝承によれば、600年の歴史を持つともいわれているが、少なくとも江戸時代中期には漆器が製作されていたことが資料により確認できる。 製作方法は、クリ材を輪切りにして生木の状態で木地を轆轤で挽き、乾燥させた後に、黒又は朱漆を薄く塗って拭き取る拭漆技法の仕上げが特徴で、木目をいかした椀・皿・鉢などが製作される。 郷原漆器の生産は、戦後後継者がいなくなり一時途絶えたが、近年関係者の努力により復興された。 保持団体の郷原漆器生産振興会は平成4年に設立され、現在木地師・塗師を中心とする14名の会員で構成され、旧川上村が平成8年に建設した「郷原漆器の館」を活動の拠点としている。 同会では、漆器の普及及び後継者育成を目指して養成講座を開催するとともに、使用する漆やクリ材については、10年ほど前から地元で植樹を進めるなど、地域特性の色濃い民俗技術としての継承・発展及び技術・技法の伝承に努めている。 また、平成4年には県指定郷土伝統的工芸品に指定されている。 |
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