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ミュージアム展示品の紹介

印刷ページ表示 ページ番号:0521050 2023年4月3日更新文化財課

ミュージアムでの展示品を御紹介します

​ 川に捨てられたまつり道具

​ 陸上競技場の発掘調査では竪穴式住居跡が多数見つかり、ここには弥生時代後期のムラが広く存在することが明らかとなりました。また、ムラの中央部にはムラを分断するように幅50mの川の跡が発見されました。とりわけその北側斜面からは北のムラで使われていたさまざまな土器や木器が発見され、ムラの様子を知ることが出来ました。

特殊な器台と壺

特殊器台と壺

 この土器は、弥生時代の吉備の墓のまつりに用いられていた特殊器台、特殊壺に形がよく似ています。しかし、表面を飾る文様や透かし穴、さらに胎土はそれらとは大きく異なっています。胴部を飾る二条一対の高い突帯に挟まれた筒部には線刻直線文を斜めに複雑に連続させ、鋸歯文あるいは綾杉文を組み合わせた特殊な文様とし、また、この土器には砂粒を全く含まない精製された胎土にもかかわらず、炭化した稲籾を意識的に混ぜていました。

 壺が器台の上に載せられ、ムラのまつりの中心的な祭具であるのはよく知られていますが、このように大型で、しかも穀物である稲籾がその中に入れられていることは、この土器がムラの中での穀物の豊穣を祈念したマツリのために特別につくられた土器と考えられます。

 集落遺跡の中で特殊器台に匹敵した大きさ、しかも10個体近い出土事例は全国的にも他に例を見ないものです。これだけの土器を使ったまつりが出来る、力をもったムラがここに存在していたのです。

 

 

 籠目土器によって知られる土器の使用方法

​ 弥生土器の壺の表面にしばしば見られる格子状の白抜き文様。幅1cm前後の直線が斜めに交差し、土器によってはこれに水平方向が加わり、これらが規則性をもって籠目のようにみられます。その様子からこうした土器を籠目土器と呼びます。土器の役割を知るうえで貴重な資料の一つといえます。籠目土器は、弥生時代後期の河道跡から14点出土しています。高さ20cm程度の小さなものから高さ約50センチで胴部の径が40センチを測る大きなものまで大きさも様々で、用途に合わせた籠目土器があったようです。中には痕跡だけではなく編んだ材料がそのまま残った土器も見られます。

かごめ壺   

かごめ壺

 

 この土器は後期後半の長頸壺で、頸部と胴部の境から底にかけて幅7mm前後のカズラで斜め方向と胴部最大径付近に2条が斜めのカズラを固定するように編み上げられており、しかも一本一本の斜めの紐掛けが頸の一点に集まるように纏められていました。壺を籠で覆うことにについては、飲み水や食料の運搬の補助用との説もありますが、大事な食料や次年度の種籾などを鼠などに食べられないようにするための壁や梁から吊るす工夫とも考えられます。

(高さ44cm、胴部最大幅25cm)

 

 

秋の豊穣とイネ刈りの風景

 秋になってムラの周囲に広がる水田には穂首を下げたイネが一面金色に輝く頃、それらは大切に摘み取られ、高床倉庫に収められました。収穫を待つ大事なイネには小鳥も群がっていたようです。

 水田の調査では、収穫作業中落として分からなくなった石包丁のほか、鋭利な石鏃や石つぶても数多く出土しました。鳥を追い払うために使われたものだったのかもしれません。

前期石包丁

 前期石包丁

 この石包丁は、頁岩製で刃を両面加工で弧状に付け、背は手が痛くないように潰し、全面が丁寧に磨かれています。紐通しの二つの孔はそれぞれ直径0.5センチに両面二方向から丁寧に穿孔され、この間の距離は1.5センチと指が一本分入るように間隔が開けられています。

打製石包丁     

石包丁

 「桃太郎の机」の上で展示しているサヌカイト製の打製石包丁は、希望があれば誰でも直接手に持って観察をすることができます。よく見てみると表面に光沢があることが分かります。イネの細胞にはガラス質が含まれているため、長年の使用によって付着したと考えられます。そのため、この石包丁は稲穂の収穫用に使われたものと推測できます。

 
 

地下からのメッセージ

 岡山県南部に広がる岡山平野は、かつては海でした。この海が陸地となった原因には、旭川の流れが大きく作用しており、長い歴史の中で旭川は岡山県の北部から南部にかけて縫うように流れ、時には大洪水となって流域の土地を削り、土砂を下流へと運びました。この結果、海は徐々に埋まり、やがて肥沃な土地が形成され、人々が住み易い環境が整ったのです。

剥ぎ取り​

剝ぎ取り

 ミュージアムの壁面を飾るこの地層は、陸上競技場の発掘調査の際に、西壁の地層を土質や土色などの違いにより分層(線引き)を行った部分に特殊な接着剤を塗布し、その上面に布を貼り付け、乾燥後に剥ぎ取ったものです。

 この剥ぎ取りからは、海が徐々に陸地化し、弥生時代前期には早くも水田がつくられ、それが中期には大洪水による砂によって埋没し、やがて洪水砂が安定した弥生時代後期には多くの住居からなるムラが営まれていた様子を知ることが出来ます。

 この剥ぎ取りは、津島遺跡のみならず岡山平野の歴史を知るうえで貴重な資料といえます。

 なお、調査時には前期の水田層以下の各層の土を採取し、その中に遺ったプランクトンや花粉、さらにはプラントオパールを調べ、層ごとの環境や植生、水田の有無についての調査を行いました。

桃核が物語る津島ムラ   

梅

 今日、桃といえば岡山の名産品として全国的によく知られています。陸上競技場の弥生時代後期の河道跡の発掘調査からこの桃の種である桃核が数多くの土器や木製品に混じって出土しました。

 その数2.400個は、一遺跡からの出土数としては岡山県上東遺跡の9.606個、邪馬台国畿内説で有力候補地である奈良県纏向遺跡の2.769個に次いで全国第3番目の量を誇ります。

 この頃の桃は、食べるためのものではなく、中国の神仙思想で不老長寿あるいは邪悪な霊を追い払うためのものとされ、主にはマツリに用いられていたと考えられています。纏向遺跡に匹敵する数の桃が出土した津島のムラは、一体どのようなムラであったのでしょうか。想像がかき立てられます。