大震災から2年 今年も続く復興調査

                   

文/宮城県教育委員会 岡本 泰典

   



 東日本大震災の被災地である宮城・岩手・福島の3県では、今年も震災復興事業に伴う埋蔵文化財発掘調査が続いています。調査支援のための専門職員派遣も2年目を迎え、今年度は文化庁の仲介によって宮城県に24名、岩手県に22名、福島県に14名の合計60名が派遣されました。また、文化庁ルート以外の独自派遣や、小規模調査への短期出張支援なども行われています。派遣職員の所属は北海道から沖縄県にまでおよび、まさにオールジャパンの支援体制によって、震災復興と埋蔵文化財保護の両立を目指しています。

 今年度、筆者が派遣されている宮城県でも、防災集団移転、鉄道移設、道路建設などの震災復興事業に伴う発掘調査が各地で実施されています。ちなみに、宮城県への派遣職員の中には、平成7〜9年度の阪神淡路大震災に伴う復興調査の経験者が5人おり、実は筆者もその一人です。
 

各地からの派遣職員
会議に集まった各地からの派遣職員

 筆者は、4月から多賀城市の山王・市川橋〈さんのう・いちかわばし〉遺跡の調査に従事しています。山王・市川橋遺跡は、古代城柵として著名な多賀城〈たがじょう〉の南に広がる、弥生時代から中世にかけての遺跡です。特に、多賀城が機能していた奈良・平安時代には、都城に類似する碁盤の目状の街区が整備され、多賀城に付随する都市が成立していたと考えられています。筆者は以前、岡山県総社市の古代山城、鬼ノ城の調査を担当したことがありますが、今度は東北の古代城柵、多賀城の関連遺跡を調査する機会に恵まれたことに、不思議な縁を感じます。       

 今回の調査は、「復興道路」と位置付けられた三陸沿岸道路の4車線化およびインターチェンジ設置に伴って、平成24年3月から実施しています。今年度は、人員の入れ替わりはありますが、これまでに宮城県のほか山形県・群馬県・奈良県・岡山県・山口県・香川県・熊本県・宮崎県・京都市の職員が協力して調査にあたりました。
 調査の結果、主として古墳時代後期(6世紀末〜7世紀中頃)と、奈良・平安時代(8〜10世紀)の遺構が確認されました。

 古墳時代後期には、河川沿いの微高地(やや高い場所)に竪穴住居群が営まれたことがわかりました。続く奈良時代には、溝や材木塀(溝の中に丸太を立て並べた塀)による長方形区画の中に、竪穴住居や掘立柱建物が配置されています。平安時代に入ると、両側に側溝をもつ道路や、街区内を細分する溝などが出現し、都市としての整備が進んだことが改めて確認されました。内部には引き続き竪穴住居や掘立柱建物がみられますが、その密度や規模は場所によって違いがあり、土地の利用形態や住む人の地位などを反映している可能性があります。なお平安時代の遺構の一部には、延喜15(915)年に噴火した十和田カルデラの火山灰が堆積しており、火山灰に馴染みの薄い筆者には印象深いものでした。
 

発掘調査の様子
発掘調査の様子
竪穴住居発見!
四角い竪穴住居を発見!
丸太の跡が残る材木塀
丸太の跡が残る材木塀
火山灰の堆積
火山灰が堆積した道路側溝

 以上のように、今回の調査では多賀城の前面に広がる都市の一画を発掘し、その構造や変遷が明らかになるという成果があがりました。これを受けて、7月21日には現地説明会を開催し、県内外から多数の来場者がありました。遺構や遺物を見学しながら熱心に質問される方もおられ、多賀城や山王・市川橋遺跡、あるいは復興調査への高い関心がうかがえました。  

 筆者はこれまで、東北地方にはほとんど縁がなく、派遣当初は果たして復興調査の役に立てるのかとの不安で一杯でした。実際、遺構や遺物を見ても悩むことばかりですが、宮城県職員や各地からの派遣職員、そして作業員の皆さんに支えられ、曲がりなりにも職務を果たすことができています。今回紹介した山王・市川橋遺跡は、古代東北統治の拠点であった多賀城のいわば「城下町」であり、その調査に参加できたことは、筆者個人にとっても生涯忘れえない貴重な経験ともなりました。今後も、発掘調査を通じて明かされる地域の歴史をしっかりと記録にとどめ、被災地の復興とさらなる発展に向けて幾分なりとも貢献できるよう、努力していきたいと思います。

 

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