宮城県における震災復興事業に伴う埋蔵文化財発掘調査について(第3回)                   

文/宮城県教育庁文化財保護課 技術補佐(総括担当) 天野 順陽

   



1 今回は・・・
 今回は、まず、復興事業の進捗状況について報告します。つぎに、前回予告したとおり、羽黒下〈はぐろした〉遺跡(石巻市)を中心に、高台移転事業に関連する主な遺跡の調査成果について報告したいと思います。

2 復興事業の進捗状況について
 第1回目に、平成27年4月時点の復興事業の進捗状況について報告しましたが、改めて10月時点の進捗状況等についてお伝えします。
 (1) 「集中復興期間」の終了と「復興・創生期間」の創設
 宮城県では、震災発生の翌年度にあたる平成23年度〜32年度までの10年間で復興を完了させることを目指し、震災復興計画を立てて事業を進めています。今年度は、計画のほぼ中間地点にあたる再生期の2年目となります(図1)。
  また、国も復興期間を10年間と定め、前半の平成23〜27年度までの5年間を「集中復興期間」と位置づけ、100%国負担の復興交付金により迅速に復興事業(街作り事業)を進める施策をとってきました(図1)。そして、気になる「集中復興期間」終了後の国の対応については、平成27年6月26日、復興庁から「平成28年度以降の復旧・復興事業の基本的な考え方」として公式に発表され、平成28〜32年度までの5年間を「復興・創生期間」とすること、埋蔵文化財発掘調査(職員派遣を含む)に関しては、基本的に自治体負担はなく、集中復興期間と同様に100%国負担の復興交付金により措置されることなどが明らかになりました。当初、事業によっては事業費の一部を地元の県や市町が負担する可能性がある、との報道があったため心配していましたが、これで一安心です。

三陸沿岸道路多賀城IC 山王遺跡

(2)復興調査の進み方
 平成27年10月時点で、図2のとおり、@Aがほぼ終了、BCが今後本格化、Dは今後も継続という状況です。重要交通路・住宅地整備から生活・生産域の整備に事業の中心が移っているのがわかります。また、課題は、一部事業で土地買収等が遅れているため調査に着手できないことですが、調査に着手できる環境が整い次第、迅速に対応していきたいと思います(図3・4)。なお、復興事業の終了時期については、現時点で明確ではありません。

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

三陸沿岸道路多賀城IC 山王遺跡

3 羽黒下遺跡の調査成果について
 (1)羽黒下遺跡について
  羽黒下遺跡は、石巻市給分浜〈きゅうぶんはま〉に所在する縄文時代前期〜中期頃の集落跡です。石巻市の東南端には、太平洋に突き出ている牡鹿半島があり、その先端付近の丘陵上に位置しています(図5)。すぐ近くには、かつて捕鯨基地として栄えた鮎川浜があります。 東日本大震災では、牡鹿半島の浜ごとに形成されていた集落は、津波により壊滅的な被害を受けました。後に、牡鹿半島付近の地盤は南東方向に約5.4mも動き、また、50cm以上も地盤沈下するなど大きな地殻変動があったこともわかり、改めての震災のすさまじさを思い知らされました。 羽黒下遺跡の調査は、津波被害に遭った方々が移転する住宅地の造成(高台移転)に先立って実施したものです。宮城県では、震災以降、高台移転事業に関連する本発掘調査を約30件行いましたが、大規模な調査に限ってみれば、おそらく羽黒下遺跡の調査が最後になると思われます。

三陸沿岸道路多賀城IC 山王遺跡

 

(2)派遣職員の支援
 羽黒下遺跡の本発掘調査は、平成26年11月に開始しました。前回(第16回)で報告した合戦原遺跡(山元町)と同様に、冬期間も調査を継続し、早期終了を目指しました。
  調査は石巻市教育委員会が中心となって実施していますが、調査対象面積が約13,000uと広大なため、当課からも4〜7名が調査に協力しています。このうち5名が派遣職員で、今年度は山口県、兵庫県、長野県、群馬県、新潟市の派遣職員に担当していただきました。
 派遣職員のアパートがある仙台市内から牡鹿半島先端の羽黒下遺跡までは、途中、高速道路を利用しても、自家用車で片道2時間程度はかかるため、全員、基本的に4泊5日の出張で対応しています。月曜日の早朝にアパートを出発し、金曜日の夜に帰宅するパターンで、大変ご苦労をおかけしています。宿泊場所は、石巻市内や隣町の女川町に各自確保しているようです。復興事業に係わる土木関係者が多いため、顔見知りにならないと宿の確保も難しいようですが、震災直後に比べ、予約が取りやすくなったと聞いています。
 石巻市教育委員会からは1〜2名が対応しており、このなかには神戸市派遣職員の西岡誠司さんが含まれています。西岡さんは、平成24年度に宮城県、26年度に岩手県陸前高田市、そして今年度、再び宮城県石巻市に派遣されたベテランの派遣職員です(図6)。
 また、平成25年10月から、山形県河北町から石巻市に発掘調査に関連する契約等を担当する事務職員として、庄司祐一さんが派遣されています。派遣職員(埋蔵文化財専門職員)が発掘調査関連事務や窓口業務を担当した例は他自治体でも少数あるようですが、事務職員として派遣されたのは、被災3県でも庄司さんだけです。改めて感謝いたします。
 石巻市は、平成の大合併により、宮城県第2の人口をもつ市(註1)に再編されましたが、合併した旧河北町(現在は石巻市河北町)と町名が同じで、以前より友好関係にあったことから、この派遣が成立したと伺っています。羽黒下遺跡などの発掘調査に関連する多数の契約事務等を迅速に処理していただき、お陰様で円滑に調査が進められています。
 報道等でご存じの方も多いと思いますが、陸前高田市と石巻市は、特に津波被害が大きかった市で、復興事業に携わる職員が慢性的に不足しており、各部局とも派遣職員が貴重な戦力になっています。膨大な事業量に加え、勤務環境や住環境も十分に整っていない中での業務となりますが、引き続き、ご支援をお願いしたいと思います。
   (註1)震災前の人口は約16万人であったが、震災後は約14万9000人に減少。
       県庁所在地の仙台市は100万人都市なので、石巻市との差はかなり大きい。

三陸沿岸道路多賀城IC 山王遺跡

(3)調査成果
 調査の結果、丘陵上部の平坦面で建物跡の一部とみられる柱跡、丘陵斜面で縄文時代前期〜晩期の土器や石器などを多量に含む黒色土層3ヵ所などのほか、溝跡、土坑(穴)などを発見しました。黒色土からは縄文土器や石器などが整理用平箱で約880箱も出土しています。太平洋を見渡せる小高い場所に住居域があり、その周辺の斜面に当時使用された土器等が長い年月をかけ堆積していった縄文時代の風景が目に浮かびます。ただ、残念なことに、丘陵上部の平坦面は、大きく地形が改変されており、本来、確認できる建物跡の多くは失われてしまったようです。
 羽黒下遺跡と類似しているのが、約500m北側に位置する中沢遺跡で、羽黒下遺跡の全体像を考える上で大変参考になります(中沢遺跡発掘調査説明会資料参照)。中沢遺跡は、高台移転事業に関連する復興調査では、県内で最も早く本発掘調査に着手した遺跡で、平成24〜25年度の調査により、丘陵上部の平坦面で縄文時代前期〜中期頃の大規模な集落跡が発見され、その周辺の斜面には多量の縄文土器等が堆積していることがわかりました。羽黒下遺跡では明確な建物跡は確認できませんでしたが、中沢遺跡のように、大規模な集落が長い年月にわたって営まれていた可能性があります。
 羽黒下遺跡の周辺には、中沢遺跡のほかにも給分浜〈きゅうぶんはま〉遺跡(貝塚)など縄文時代の遺跡が周知されていますが、これまで発掘調査が行われた遺跡は中沢遺跡と羽黒下遺跡だけで、その他の遺跡の詳細は不明です。しかし、両遺跡の調査成果をみると、周辺の縄文時代の遺跡も大集落跡ではないのかと想像したくなります。牡鹿半島の歴史を考える上で貴重な成果を得ることができました(図7〜10)。

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

(4)発掘調査成果説明会の開催
 平成27年10月24日(土)に発掘調査成果説明会が開催され、約110名の参加がありました。遺跡の近くには津波被害に遭った方々の仮設住宅が建っていますが、その仮設住宅からも多くの参加がありました(図7〜10。羽黒下遺跡発掘調査説明会資料参照)。
 (5)発掘調査終了
 平成26年11月から冬期も含め1年以上続いた本発掘調査も、お陰様で平成27年11月に終了しました。これも調査を担当いただいた多くの派遣職員の支援があったからだと思います。
 また、調査当初は、地元の方から「遺跡調査? こんなところから何も出ないぞ」と言われたこともありましたが、今ではそのような声は聞こえず、調査に理解を示してくれています。発掘調査作業員として働いてくださった仮設住宅の方もおり、地元の皆様には感謝の気持ちで一杯です。
 今後は、出土遺物の整理、報告書作成に入ります。出土遺物が整理用平箱で約880箱と多いため、報告書刊行まで時間を要する見込みですが、迅速に進めていきたいと思います。
 前述のように、高台移転事業に関連する大規模調査は、おそらく羽黒下遺跡の調査が最後になると思います。復興事業は今後も続きますが、最も優先される住環境の整備に関する調査が一段落し、私達も、正直、安堵しております。


4 高台移転に関連する主な復興調査の成果について
 羽黒下遺跡と同様、高台移転事業に関連する気仙沼市波怒棄館〈はぬきだて〉遺跡、台の下遺跡・台の下貝塚、南三陸町新井田館〈にいだたて〉跡の調査成果等を報告します。
 なお、前回、多賀城市山王遺跡(三陸沿岸道路建設)、涌沢遺跡(山元町。常磐自動車道路建設)、合戦原遺跡(山元町。高台移転事業)を紹介しておりますので、是非ご覧下さい。
 (1)波怒棄館遺跡(気仙沼市)
  宮城県最北の気仙沼市に所在する縄文時代前期頃の集落跡です。車で5分も北上すれば、津波に耐えた「奇跡の一本松」がある岩手県陸前高田市です。 調査は平成24〜25年度に気仙沼市が中心となって行いました。県からも4〜6名(派遣職員含む)が調査に協力しました。復興調査ということもあり、冬期間も調査を継続しました(図11・12)。
 調査の結果、丘陵斜面で貝塚3ヵ所を発見し、土器、石器。骨角製品のほか、大量のマグロの骨(140kg以上)などが出土しました。なかには石器が突き刺さったままの骨もありました。おそらくマグロを石器(ナイフとして使用)で解体している時に折れてしまったものと思われますが、マグロ業で栄えた縄文時代の集落であることを示す貴重な資料だと思います。
 出土遺物は、昨年度の「発見された日本列島2014」(文化庁主催)にも出品されました(図13)。東京都江戸東京博物館で開催された時には、来賓の天皇皇后両陛下が、石器が突き刺さったマグロの骨を興味深くご覧になっていたとの話を文化庁職員から伺い、私達も感激しております。
 また、貝塚の調査・整理作業を進めるに当たっては、奈良文化財研究所の山ア健さんに指導・助言をいただきました。遠方の奈良県から何度も足を運んでいただき、ご苦労をおかけしましたが、お陰様で円滑に作業が進みました。改めて感謝いたします。
 調査終了後、宅地造成工事が始まり、平成27年10月時点で、住宅移転はほぼ完了しております(図14)。
波怒棄館遺跡発掘調査説明会資料

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

(2)台の下遺跡・台の下貝塚(気仙沼市)
  両遺跡とも波怒棄館遺跡の北側に位置します。台の下遺跡は縄文時代中期頃の集落跡、台の下貝塚は縄文時代中期〜晩期の貝塚で、両遺跡は実質的には一連の遺跡とみられます。
  調査は平成25〜26年度に気仙沼市が中心となって行い、県からも3〜5名(派遣職員含む)が調査に協力しました。 台の下遺跡では縄文時代中期の竪穴住居跡のほか、平安時代の炉跡等を発見、台の下貝塚では貝層から土器、石器、骨角製品などが大量に出土したほか、埋葬された人骨も確認されました。
 平成25年12月14日(土)に発掘調査成果説明会を開催しました(台の下遺跡・台の下貝塚現地説明会資料参照)。また、その後も、貝塚や埋葬された人骨(お墓)の調査に合わせ、随時、地元の方に発掘調査現場を公開しました。
 調査終了後、宅地造成工事が始まり、波怒棄館遺跡と同様に、住宅移転はほぼ完了しております(図15・16)。

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

(3)新井田館跡(南三陸町)
  南三陸町の中心地、志津川の北側に所在する中世の山城跡です。城主は不明ですが、この地域が12〜16世紀に葛西〈かさい〉氏の支配下にあったことから葛西氏に係わりのある武将が城主と推定されています。
 調査は平成24〜26年度に南三陸町が中心となって行いました。県からも4〜6名(派遣職員含む)が調査に協力しました。
 調査の結果、平場6ヵ所、堀6条、土塁(土を盛って作った堤防状の高まり)8条などを発見し、山城の全体像が明らかになりました(図17)。遺物は陶器、銭貨、砥石、羽口等が少量出土しました。平場には複数の建物が認められます。堀は最大幅約8m、深さが約3mあります。堀と並列する土塁は高さが約2〜3mあることから、土塁の頂部から堀の底部までの比高が約5〜6mとなり、防御性が高い構造になっています。築城年代は、出土遺物から判断して15世紀前半頃で、17世紀までには廃城したと推定しています。
 南三陸町でこのような大規模な発掘調査が実施されたのは初めてですが、宮城県内でも山城全体を調査する事例は非常に少なく、貴重な調査例となりました。
 平成25年11月23日(土)、午前・午後の2回に分けて発掘調査成果説明会を開催しました(新井田館跡現地説明会資料)。南三陸町は人口約14,000人(註2)の小さな町ですが、町外からの参加も含め計約350名が集まり、関心が高かったことが分かります。このなかには、遠方、わざわざ駆けつけてくれた平成24年度派遣職員数名も含まれています。参加者は強風の中、険しい山を徒歩で登り大変な様子でしたが、防御性の高い山城を実見できたことは貴重な経験だったのではないでしょうか。
 ところで、南三陸町沿岸部が津波により壊滅的な被害を受けたことをご存じの方も多いと思います。現在、新井田館跡が所在する志津川地区では、復興事業が急ピッチで進められています。報道等でよく紹介される南三陸町防災庁舎は、屋上まで津波に襲われ、多くの職員が命を落としましたが、この防災庁舎周辺でも庁舎より高い10m以上の盛土造成がなされ、町の様子が震災前と大きく変わっています(図18〜20)。近い将来、この盛土の上に新しい町並みが現れることと思いますが、少しでも早く、復興が実感できる状態になって欲しいと願っています。
   (註2)南三陸町の人口は震災前の平成23年2月で17,666人、平成27年10月で13,874人と約4,000人減少している。

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

宮城県地図 復興道路・JR関連調査

5 次回は・・・
 今回は、宮城県北の高台移転事業に関連する調査成果を中心に紹介しました。震災直後から、住環境の整備が喫緊の課題となっていましたが、高台移転事業に関連する大規模調査が終了し、私達も安堵しております。今後は、集落間を結ぶ道路の整備や、圃場整備、漁業関連施設整備など生活に密着した復興事業に伴う調査が中心になっていきます。復興調査のピークは過ぎたものの、まだまだ復興調査は続きますので、引き続き、調査体制を整え、迅速に対応していきたいと思います。
 次回(第4回)は、おそらく年度末の3月頃になると思いますが、この1年間の総括、来年度の調査予定や職員派遣等について報告する予定です。




▲このページのトップへ