第5回   窯業生産でにぎわった勝田荘〈かつまたのしょう〉−及遺跡〈およびいせき〉の調査から−

 岡山県古代吉備文化財センターでは、美作岡山道路の建設に先立ち、平成22年9月から及遺跡の調査を実施してきましたが、平成23年9月に終了を迎えることになりましたので、これまでの成果を簡単にまとめて御紹介します。
 なお、今後は、中国道に向けてさらに発掘調査を進めていきます。その成果に御期待ください。

中世の集落跡
 この遺跡は、滝川を渡り国道179号を高架で越えた美作岡山道路が、黒土集落の東の山すそに差し掛かるところにあります。
 平成17年、町道鍵の池線建設に伴って勝央町教育委員会により発掘調査が行なわれ、溝で仕切られた敷地に立つ建物群が見つかりました。
 このたびの調査でも、山すそに平地を造成して建物を立てた跡を確認しており、この一帯に室町時代の集落跡が広がっていることが分かりました。

粘土を採った穴
 また、この集落の周りには直径4mもの大きな穴が密集して掘り込まれているのが見つかっています。この穴の底は黒い粘土層にそって平に掘られていて、垂直に掘り込まれた壁も粘土層の部分がえぐられていることから、この粘土を採取するために掘られたものと推定されました。
 美作岡山道路の路線内で見つかった穴は400基にものぼり、低い場所から順に掘られたこと、黒色ばかりでなくさまざまな粘土が採られていたことが新たに分かってきました。

粘土で作られたもの
 この穴の中からは、勝間田焼とともに瓦質土器〈がしつどき〉がたくさん見つかりました。瓦質土器は勝間田焼に似た灰色の焼物ですが、耐熱性に優れていることから鍋や釜などが作られ、美作地域でも広く使用されました。
 しかし、ここから見つかった瓦質土器には使用した形跡がなく、中には焼け損じと見られるものもありました。また、土器を焼き上げる際に使う道具も見つかっていることから、この近くで土器づくりが行なわれていた可能性が高まりました。

勝田荘とのかかわり
 及遺跡で粘土が採られていた平安時代末から鎌倉時代(700から800年前)、このあたりには熊野那智大社(和歌山県)の荘園が開かれていました。昭和50年頃まで、この一帯に見られた碁盤の目のような条里地割りはその名残りと思われます。
 この遺跡で見つかった瓦質土器は京都のものとよく似ていますが、この荘園の経営に京都の大寺院がかかわっていたという記録があることからすると、この辺りに堆積する良質な粘土や豊富な森林資源を背景に、瓦質土器の生産技術を京都から導入することで、新たな財源を確保しようとしたのかも知れません。
 今回の調査では、詳しい土器づくりのようすや集落とのかかわりについては明らかにできませんでしたが、今後さらに調査が進めば、勝間田焼の生産が途絶えた後も窯業生産でにぎわった勝田荘の姿が浮かび上がってくることでしょう。
遺跡の位置建物群
遺跡の位置 山すその建物群
粘土採掘の跡
繰り返し粘土を採った跡

*『広報しょうおう』2011.10月号掲載記事を一部改変して転載


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