第17回 行き交う人々−宮ノ上跡〈みやのうえいせき〉−

  「倭国〈わこく〉乱れ、あい攻伐すること歴年、すなわち一女子を立てて王となす。名を卑弥呼〈ひみこ〉という」。中国の史書『魏志倭人伝〈ぎしわじんでん〉』がこのように伝える邪馬台国〈やまたいこく〉の時代(約1,800年前)の村の跡が、小矢田の丘の上で見つかっています。
 宮ノ上遺跡では竪穴住居や木棺墓などが発掘されましたが、特に注目されるのは出土した土器の数々です。当時、この辺りは山陰地方との結びつきが強く、互いによく似た土器を使っていました。
 ところがここでは、薄手に作られた岡山県南部の土器や、板で叩〈たた〉きしめたあとを残す兵庫県南部の土器、兵庫県北部に特徴的な台形の土器などが一緒に見つかったのです。
 このように、他の地域から持ち込まれた土器がたくさん出土する遺跡は、近畿地方と九州地方を結ぶ瀬戸内海や日本海沿いでも点々と見つかっており、土器を携〈たずさ〉えて各地に移動する人々の姿をほうふつとさせます。こうした広範囲な人の交流が、やがて近畿地方を中心とした政治的なまとまりを形作っていったに違いありません。
 そして、山陰地方と山陽地方の結節点として重要な役割を果たしたこの地域には、中国山地では最大級となる植月寺山古墳〈うえつきてらやまこふん〉(全長92m)が築かれることになるのです。
岡山平野の土器中国山地の土器
岡山平野の土器 中国山地の土器 

*『広報しょうおう』2012.9月号掲載記事を一部改変して転載


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