連載第9回 自然への挑戦の武器 -治水遺構からの雑感-           

文/岡山県古代吉備文化財センター 柴田 英樹

   



 私たちは「なんとなく」信じ込んでいないでしょうか。現代の科学をもってすれば、自然界に存在するモノやその現象を知り尽くし、未来予測が可能になり、いつかは自然を統御できるのだと。
 (えー、今日の天気、晴れじゃなかった? また予報がはずれた・・・)
 こんな思いもそんなところから出てくるのかもしれません。

 しかし、3.11の大地震と大津波を挙げるまでもなく、各地でのさまざまな自然災害を思い浮かべると、その幻想がたやすく崩れてしまうことも知っています。これは、多くの場合、予測する未来が「想定の上に成り立った未来」であることを忘れがちな私たちの思考に問題があるわけで、自然界では”想定外”な出来事がいくらでも発生します。
 では、現代科学以前の人々は、どのように自然と関わっていたのでしょう。

 自然の一部である人類。その歴史は自らの欲求を満たすために自然をいかに利用し、どのように支配するかという”自然への挑戦”の歴史とも言えます。ではこれから、その代表例として、「河川への挑戦」、その努力の跡について紹介します。

 河川は、水やそこに生息する動植物、流れのもつ運動エネルギーにより、農業・漁業・工業・交通・流通などさまざまな分野で重要な働きをします。
 とりわけ日本で積極的に農耕(これもまた自然の利用と統御に他なりません)を始めた弥生時代以降、河川の水はとても重要でした。水田へ水を引き込み、また排出するための用排水路、それを効率的に行うための堰など、人々は水を上手に利用する工夫を積み重ねました。

弥生時代の水路
弥生時代の水路(岡山市中区 百間川原尾島遺跡)
水路から分かれて、水が水田へ送られます


 人々は、このような「利水」に飽きたらず、より高い効率を追求し、やがて生命や財産の安全のために河川などを統御することを考えます。これが「治水」です。現在多くの河川で見られる堤防がそれを象徴する構造物です。そして、これまでに岡山県内で行われた発掘調査では、大規模で複雑な治水遺構が見つかっています。

 岡山市北区の津寺遺跡では、飛鳥時代(今から1,400〜1,300年前)の護岸施設が見つかりました。杭列と盛土で造られ、見つかった部分だけで長さ62.4m・高さ1.8mもある施設です。これは、河川の流れを安定させるために築造された人工の川岸で、今の用語で言えば「低水路護岸」にあたります(河川で見られるコンクリート護岸を思い浮かべてください)。盛土内には木の枝やスギの樹皮などを挟み込み、おびただしい数の杭を打ち込むなど、さまざまな技術が駆使されています。
 河川の安定を図ることで、水利用を効率的にしたり、洪水を防いだり、舟の航行を安全にしたりするなどの効果が期待されていたと考えています。

護岸施設の断面
護岸施設の断面
(岡山市北区 津寺遺跡)
スギの樹皮
護岸施設に敷かれたスギの樹皮
(岡山市北区 津寺遺跡)

 このように水にさらされる場所で盛土を行う際に、木の葉や枝などの植物素材を挟む工法は、倉敷市上東遺跡の波止場状遺構(今から約1,800年前、弥生時代終わりごろ)や、岡山市中区の百間川米田遺跡の護岸施設(今から約1,000年前、平安時代)でも見つかっています。県外では福岡県の水城(みずき)、大阪府の亀山遺跡や狭山池〈さやまいけ〉などの堤が挙げられます。

波止場状遺構
弥生時代の波止場状遺構
(倉敷市 上東遺跡)
平安時代の堤防内部
平安時代の堤防の内部
木杭やむしろが使われています
(岡山市中区 百間川米田遺跡)

  ここで使われる植物素材は、日本の土木分野では1970〜80年頃から注目され始めた「ジオテキスタイル」(化学繊維でできた不織布など)に相当すると考えられます。ジオテキスタイルは、盛土内で排水等の重要な役割を果たし、盛土が崩れることを防ぐために使われます。また、軟弱な地盤に敷くことによって盛土を安定して行うことを可能にする素材です。つまり、弥生時代から平安時代にかけて、水の浸透等に対応した優れた盛土強化技術が駆使されていたということです。
 ちなみに、土の種類を交互に代えながら丁寧に突き固めて盛土を行う工法(版築〈はんちく〉)が、古墳や堤防などで行われています。これも盛土強化技術の一つで、近年まで行われていましたが、植物素材を挟むような仕掛けは見つかりません。

城壁の断面
城壁の断面
版築の様子が断面に縞模様
になって現れています
(総社市 鬼ノ城)
土手状遺構1
土手状遺構1
城壁ほどではありませんが、
土の種類を変えながら土を盛り、
表面には石垣が施されています
(総社市 鬼ノ城))

  ところで、いわゆる戦国時代以後、各地で大規模な治水工事が行われます。武田信玄の「信玄堤」は有名ですが、岡山県では百間川の築造が代表的です。これらは大量の土砂や石を使用しますが、盛土内に排水を目的とした植物素材を多用する構造ではないようです。(湿潤地を埋め立てる際に、葉などを敷き詰める工法は島根県の松江城下で見つかっています)。大げさかもしれませんが、盛土に植物素材を挟み込む工法は、中世から現代までの長い間忘れられていた工法と言えるかもしれません。

 なぜ忘れられたのか。その理由はよく分かりませんが、一つには城の石垣に象徴される石工技術の進展が考えられます。治水工事に多用される石。それは、水流の攻撃に対して、あたかも鎧〈よろい〉のように構造物を護ります。盛土強化のみの構造よりも圧倒的に効果があります。
 二つ目は、ジオテキスタイルが現代になって注目された点にヒントがありそうです。それは、石油から化学繊維の大量生産が可能になり、大規模な工事で使用しやすくなった点です。より大規模になった治水工事をできるだけ素早く行うには、植物繊維を使用する工法は不向きであったのかもしれません。

  以上見てきたように、現代科学以前の人々は、経験に基づいたその時々の最高技術と多くの人力をもって、天然素材を利用しながら河川に挑戦してきました。その成果のほどは分かりませんが、どうにもならないことや失敗も多く、最後は神や仏に願い、祈るしかないことがいくらでもあったはずです。この「技術・労働力・信仰」が、かれらの”自然への挑戦”の三つの武器であったことは疑いありません。
 今では「技術」が、「労働力」の多くを抱え込み、さらに自然界に存在しないモノや、統御が困難なモノまで作り出しています。そして「信仰」は、ある意味で対象が神仏から科学へと変わり、その「科学」が「技術」を支えています。同じ三つでもその関係や内容は変化しているようです。

 自然への挑戦、その成功と失敗が、新しい技術を生み出す力となることは事実です。しかし、現代の「科学信仰」にひそむ慢心や過剰な自信は、より新しいモノを追求するあまり、人々に過去の教訓を忘れさせ、将来への想像力を奪うこともあります。
 そしてまた大災害が、失敗経験を力に変える方法を考えるようにと、多くの難題を突きつけてきました。

 天気予報は、常に気象を観測し、その情報を積み重ねることで将来の気象を予測する行為です。最近では、人工衛星など観測技術やコンピュータによるシミュレーションにより精度はかなり高くなっています。
 私たちは未来に向けて、これからどのように歩むのか、歩むべきか。これもまた歩んできた道程を調べ、その情報を積み重ねること、つまり歴史に学ぶ必要があると思います。これもまた私たちの武器の一つとしたいものです。
 成功や失敗という経験が、新しい技術を生み出す力となったように、そして過剰な「科学信仰」に陥らないためにも。

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