連載第8回 大地に刻まれた原風景           

文/岡山県古代吉備文化財センター 松尾 佳子

   



 あらき田の 鹿^田〈ししだ〉の稲を 蔵に上げて あなひねひねし 我(あ)が恋ふらくは

(註:新しく開墾した 鹿や^が荒らす田でとれた稲を 蔵に納めましたが 長い年月がたち お米が古くなるのと同じように 私の恋も古くなってしまいました)
作者:忌部黒麻呂〈いむべのくろまろ〉(『万葉集』巻16・3848)
  

 7世紀後半から8世紀にかけて編纂された我が国最古の和歌集である『万葉集』には、上記のように稲や田を読んだ歌が数多く登場します。日本において本格的な稲作が始まった弥生時代から、私たちにとって大変身近な存在である水田ですが、『万葉集』がつくられた時代に生きる人々の周辺には、一体どのような水田風景が広がっていたのでしょうか?

 古代の水田は、現代人である私たちがイメージする水田風景の基となる、縦・横に規則正しく区画された方形の地割、いわゆる条里地割〈じょうりじわり〉をもっていたと考えられます。条里地割とは1辺約109mのほぼ正方形を呈した地割が、縦横に連続して分布していることで特徴づけられ、このような同じ大きさの区画に水田をそろえて管理する制度のことを条里制〈じょうりせい〉と言います。

  土地の正確な位置や面積を把握するのに便利なこの制度は、政府が人民やその土地を管理するには大変都合の良いものでした。ただし、広範囲に条里地割を作るのは多大な重労働を伴います。そのため、実際には7世紀後半から10世紀までの長い年月と、いくつかの段階を経て普及していったと考えられています。

  下左の絵図は中世の岡山県南部、具体的には13世紀頃の総社市東部を描いた図として有名な「備中国賀陽郡服部郷図〈びっちゅうのくにかやぐんはっとりごうず〉」です。この図の最大の特徴は、条里地割を示す計441あるマス目と、その中に記された田畠の面積や所有者に関する細かな記述です。また航空写真(下右)と比べてみると、丘陵の形や水路の位置などが正確に描写されていることが分かり、当時の作図技術の高さを示していると言えます。

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     備中国賀陽郡服部郷図

(資料提供:岡山県立図書館・岡山県電子
図書館システム〔デジタル岡山大百科〕)
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航空写真

(黒線は「服部郷図」の水路や溝を示す)

 この服部郷図の表す景観が、具体的にいつ頃までさかのぼるのかはよく分かっていません。ただ、私たちがもつ水田の原風景である条里地割は、冒頭の『万葉集』がつくられた時代から刻々と大地に刻まれ、現代につながっているのです。

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