連載第7回 噴砂〈ふんさ〉の記憶           

文/岡山県古代吉備文化財センター 物部 茂樹

   



 「それは噴砂だから写真を撮っておけ」

 そう言われたのはなんとなく覚えています。でも、そのとき写真を撮ったかどうかは思い出せませんでした。写真保管室で探してみると下の写真が1枚見つかりました。平成9年、岡山市百間川米田遺跡の発掘調査現場で、地面を階段状に掘り下げた壁面の写真です。壁面上段中央に白い砂の詰まった地割れが左下へ延びています。その右側にも地割れが見られます。その割れ目は鉄分が付着して赤茶色に染まっており、中には砂が詰まっていました。

  

百間川米田遺跡の噴砂
百間川米田遺跡の噴砂


 この場所は下の写真の矢印のところで、昔、川だった地点です。すぐ横には中世の橋脚が見つかっています。この噴砂は模式図のように、川底に溜まった砂が地震の震動によって液状化し、上層の13〜17世紀代の堆積土を突き破って噴出していました。このことから17世紀以降に噴砂を引き起こす規模の地震があったことが分かります。

百間川米田遺跡 噴砂の位置
百間川米田遺跡 噴砂の位置
百間川米田遺跡 噴砂模式図
百間川米田遺跡の噴砂模式図

 それから4年後の平成13年に再び噴砂を目にすることになりました。それは総社市の総社遺跡で備中高松城主清水宗治〈しみずむねはる〉の家臣国府市正〈こういちのかみ〉の居館を調査していたときのことでした。下の写真がそれです。堀の壁に大小の石が逆三角形状に集中する箇所がありました。現在であれば噴砂と同様な噴礫〈ふんれき〉とよぶ現象があることを知っていますが、当時私は噴砂は砂と思っていましたからこのように礫がまるで下から吹き上げられたように見えることに当惑しました。

総社遺跡噴礫位置
総社遺跡 噴礫位置
総社遺跡噴礫
総社遺跡 噴礫

  「しっかり確かめるように」との現場主任の指示のもと、礫の上部と下部はどうなっているのかトレンチを開け、また、礫自体も少し掘ってみました。それが下の写真です。その結果、礫は溝の壁の表面に貼り付いているのではなく、基盤の土の中にあり、東の方へ1m以上延びていくこと、また下層に砂礫層が存在することを確認し、噴礫に間違いないことが分かりました。

噴礫を掘った状態
噴礫調査状況
噴礫トレンチ確認
噴礫トレンチ確認状況

  この噴礫形成過程は下の模式図のようになります。大きな地震により砂礫層が液状化して噴礫が生じ、その後、沖積作用によって噴礫の上部に土砂が堆積します。しばらくしてその堆積土の上で縄文時代の終わりごろから人々が生活し始めたと推定されます。だから、この噴礫を生じさせた大きな地震が起きたのは少なくとも縄文時代晩期よりさらに昔ということになります。

総社遺跡 噴礫模式図
総社遺跡 噴礫模式図

 この噴礫を見た記憶もおぼろげになってしまいました。大地に刻まれた噴砂・噴礫などの地震の記憶は、何千年・何万年も残ります。それにくらべて人の記憶のなんと不確かなことでしょう。東日本大震災のこと、阪神・淡路大震災のこと、戦争のこと。伝えていくべきことを世代を超えて未来の子孫へ伝えることが本当にできるのでしょうか。反対に、どうして私たち日本人は1,500年前の古墳時代のこと、2,000年前の弥生時代のことを忘れてしまったのでしょうか。

  最近「伝えていくこと」を真剣に考えなければならないと感じています。
 それなのに私の娘たち3人に父ちゃんの経験をどうやって伝えるかでまず、つまづいてしまう情けない私です。

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