連載第5回 平原から海へ−瀬戸内海の形成 

                   

文/岡山県古代吉備文化財センター 杉山 一雄

   



 本州と四国の間で東西に広がる瀬戸内海は、昭和9年に我が国最初の国立公園の1つに指定されました。大小1,000あまりの島々が浮かび、とても美しい景色です。しかし、1万年くらい前の瀬戸内海の景色はまったく違っていました。

瀬戸内海の風景></TD>
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      <DIV align=      瀬戸内海に浮かぶ島々(手前は瀬戸大橋)
(岡山県立記録資料館提供)

 瀬戸内海では、かつては底引き網を使って魚を捕っていました。このとき、2万年以上前に生きていたナウマンゾウやスイギュウ、シカといった動物の化石が網の中に入ることがありました。

 約8万年前から1万5,000年前まで、地球全体は最終氷期にあたり、とても寒い気候でした。海が凍りついていたので、地面の高さは今よりも130mほど低く、日本は大陸と地続きで瀬戸内海も陸地でした。ですから、大陸にすんでいたナウマンゾウなどの動物たちは歩いて日本にやってきていたので、死んで骨になったあと化石化したものが瀬戸内海の海底に残されたのです。

 陸地だった頃の瀬戸内海の景観はどうなっていたのでしょう?

 海底の起伏をみてみると、水深約15〜20mの広い平らな面があり、その真ん中辺りに幅約1q、水深50m前後の水路状のくぼみがあります。東西方向に長く延びていることから、これが大きな川の跡だと想像できます。この川を流れる水が、紀伊水道と豊後水道から太平洋へ流れ出していたのでしょう。今では瀬戸内海に浮かぶ島々も、当時は平原を見渡せる小高い丘の頂上だったのです。

過去5万年の年表
過去5万年間の出来事
(工藤雄一郎『企画展 縄文はいつから!?』
国立歴史民俗博物館 2009年より)

 では、いつ頃今のような景色が作られたのでしょうか。

 約1万5,000年前、最終氷期の終わり頃になると気候も次第に温暖になり、1万2,000年くらい前には温暖な後氷期になります。最近の炭素14年代測定の結果では、縄文時代草創期〈そうそうき〉の青森県大平山元T〈おおだいやまもとT〉遺跡出土の土器に付いた炭化物を測定したところ1万6,500年前頃の数値が出ています。残念ながら、岡山県では草創期の土器は出土していません。しかし、内陸部だけでなく沿岸部でも槍に使われた有茎尖頭器〈ゆうけいせんとうき〉が出土していることから、旧石器時代から続いて、草創期に平原で狩りなどをして人々が生活していたのは確かでしょう。

 岡山県周辺では、草創期の次の早期に位置付けられる貝塚が多く残っています。近年発掘調査された岡山市犬島〈いぬじま〉貝塚にも瀬戸内海が平原から海に変わっていく証拠が残されています。

 貝塚には、縄文人が食べた食べ物のかすや使った土器や石器といった道具などが捨てられています。特に「貝塚」の名前のとおり貝殻が多く捨てられています。早期初め頃の瀬戸内市にある黄島〈きしま〉貝塚や黒島〈くろしま〉貝塚では、貝塚の深いところからは河口に棲むヤマトシジミが、浅いところからは遠浅の海に棲むサルボウやハイガイ、カキが出土しています。地表から深いところかにあるものが、浅いところにあるものよりも古いはずですから、貝の種類がヤマトシジミからサルボウなどへ変化するということは、貝塚が作られ始めた時には近くに河口があったのに、次第に遠浅の海が広がり始めたことを示しています。

黒島貝塚で見つかった貝殻
黒島貝塚の貝層
サルボウ・ハイガイなどの海産の貝が見えます。
(岡山大学考古学研究室提供)
黄島貝塚で出土した縄文土器
黄島貝塚出土の縄文土器片
表面に山形や楕円形の文様があります。
(『岡山県史 考古資料編』岡山県史編纂委員会 1986年より)

 黄島貝塚や黒島貝塚のヤマトシジミを炭素14年代測定したところ、約8,500年前の数値が出ています。このことから、それまで平原であった土地が約8,500年前から徐々に海水が入ってきて海が広がっていき、現在の風景に近い姿になっていったと考えられます。

 瀬戸内海に海が広がってきたことによって、植物はなくなり、植物を食べていた動物も平原から姿を消していきます。これまで、狩りや植物採集で生活していた縄文人たちも、食生活や生業を変えていかざるを得なくなり、生活場所も移動しなくてはならなくなっていきます。

 しかし、瀬戸内海は新たな魚介類をはじめとして海藻や塩といった豊富な海産資源を提供してくれました。縄文人たちも海産資源を積極的に活用していき、これ以降岡山だけでなく瀬戸内に住む人たちの主たる生業を支えてくれています。

  

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