連載第10回 洪水の復旧作業 「天地返し」           

文/岡山県古代吉備文化財センター 氏平 昭則

   



 平成17年の夏、都市計画道路竹田升田線建設に伴う発掘調査で、岡山市中区の宮南〈みやみなみ〉遺跡を発掘中のことです。
 現代から江戸時代後半の水田耕作土を取り除いたところ、その下層からサラサラの砂で埋められていた溝群を検出しました。

宮南遺跡の畝状遺構
宮南遺跡の畝〈うね〉状遺構
畝状遺構断面
畝状遺構の断面

 溝はいずれも整然と東西・南北方向を向いており、南北13m×東西16mの範囲に分布し、その数は合計32条を数えます。溝は幅40〜60p、深さ15〜25pを測り、溝と溝の間は約10〜20pで掘り残した部分があります。溝の掘り方を細かく観察すると、壁面は凹凸を繰り返しており、楕円形が連なって溝のような形になっていることがわかりました。この遺構について、調査担当だった私は、その形から畝状遺構〈うねじょういこう〉と呼ぶことにして、その性格について考えることになりました。

砂・・・で思い当たったのは、洪水でした。宮南遺跡は旭川にほど近く、すぐ東側には江戸時代に掘削された祇園用水が流れています。備前地域に限ってみると江戸時代の洪水で最も有名なのは承応3(1654)年の洪水です。岡山城下で家屋が3,700軒流され、溺死者は150人に達したとされています。本当に恐ろしいのはその後のことです。翌年岡山藩は大飢饉となり、餓死者は3,600人を数える大惨事となりました。

 洪水被害の軽減と農地回復・開拓が求められたのは必然でした。こうして、洪水対策と新田開発を兼ねて寛文9(1669)年から百間川が築造されますが、それ以降も洪水は繰り返し起こっています。

 さて宮南遺跡の畝状遺構ですが、埋土が砂であること、遺跡が旭川に近いことから洪水の後片付けで掘削されたものと考えました。ただ類例が思い当たらないことから、半信半疑でずっと頭の隅に引っ掛かっていました。

改めて類例を調べると、最近倉敷市の東端にある上東中嶋〈じょうとうなかしま〉遺跡でも、同様の畝状遺構が調査されていました。

上東中嶋遺跡の畝状遺構
上東中嶋遺跡の畝状遺構

 さらに調べていくうちに、遠く離れた群馬県や神奈川県で類例が見つかりました。埋められていたのは、火山灰でした。群馬県では天明3(1783)年の浅間山噴火に伴って流出した泥流を埋めた溝群(復旧溝群)が、神奈川県北山町では宝永4(1707)年の富士山噴火の堆積物を埋めた溝群が発見されています。火山灰からの耕地の復旧も、洪水と同様の方法で実施されていたのです。

 これら災害からの耕地復旧作業は「天地返し」と呼ばれ、その作業は以下の手順で行われたと考えられます(下図参照)。

1 耕作土の上に洪水砂が堆積した状態です。

2 砂で埋まった所に、耕作土より深い溝を掘り下げます。この時、溝の片方だけに土を積み上げます。

3 積み上げた側の反対側にある、砂のみを溝に埋めます。

4 砂を削った側の所は耕作土が現れているので、その部分に溝を掘ります。この時隣の溝との間に掘り残す部分を作らないと、掘り上げた耕作土ごと掘削中の溝が埋まってしまいます。掘り上げた耕作土は、先ほど埋めた溝の上に積みます。

5 これを繰り返すと、耕作土が表面に積み上がります。

手順1
天地返し 手順1
手順2
天地返し 手順2
手順3
天地返し 手順3
手順4
天地返し 手順4
手順5
天地返し 手順5

 つまり、宮南遺跡の畝状遺構で畝と考えていたのは、溝と溝との間に掘り残した部分でした。楕円形の1つ1つは掘り上げた1単位だったのでしょう。

 江戸時代のことですから、天地返しは全て人力で行われたものです。おそらく数人が1列に並び、1条ずつ掘り進めていったに違いありません。1条の深さは、少なくとも50pを超えていたでしょう。その労力には、並々ならぬ復興の意志を感じ取ることができます。

 現在も県内はもとより、日本のあちこちで発掘調査が行われています。発掘作業は人力掘削の作業が多く、その速度は重機の掘削と比べるとあまりにもゆっくりに思われるでしょう。しかし、この地道で着実な発掘調査によって、洪水の記憶とともに先人の知恵や苦労が今に呼び覚まされるのです。

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